薬物依存症から回復していくための方法として、12ステップというクラシックなドグマがあって、セルフヘルプグループなどで使われている。
その中でも、ステップ8、ステップ9というのは人間関係の埋め合わせについてのもので、迷惑をかけたり、傷つけた人のリストをステップ8でノートに書き、機会があれば直接その相手に会いにいくというのが、ステップ9である。
ステップ8&9によって私は罪悪感から解放され、多くの人間関係を良好に取り戻したが、ひとり、母との関係だけは自分の気持ちの中で修復できず、いつも目の前に重い霧がかかっているようだった。
薬物が止まっているだけで母は安心し、埋め合わせはできているだとか、母の日にはカーネーションを送ったり、母の誕生日には電話をかけるなどして、一応埋め合わせの体裁は整えていた。しかし、そんな見せかけの埋め合わせなど、わたしにとっては薄っぺらなもので大した意味はなかった。
心の中のわだかまりは、傷つけたことと傷つけられたこととが、きちんとふるいにかけられていないことから生じている。特に自分のセクシュアリティを脅かすような、母の不適切な、10代の頃のわたしの境界への侵入について、母と面と向かいあって話す必要があった。
わたしのせいではなく、母のせいである事は、母に返す必要があった。
最終的には、薬物を使ったのだから、そんなわたしが悪かったという安易な受け入れ方をしてしまうと、今でもわたしの心に影を投げかけている魔物から死ぬまで逃れられない。
今年になってそういった思いが募るばかりだった。
わたしは意を決して、昨日、母に会いにいった。
昨年の大晦日以来だ。その時は、母とわずかな時間いるだけで解離を起こし、早々と大阪に逃げ帰ってきたのだった。
キッチンのテーブルに母と斜め90度に腰掛け、お寿司やフルーツやタルトを口に運びながら、彼女の他愛もない愚痴に短い返答を返す。緊張していた。本当に話せるのだろうか。92歳の老母にとっては酷すぎる話かもしれない。母の命を縮めるかもしれない。でも18歳のわたしにとって、それはどこまでも残酷で、よく死ななかったなあと思える事だったのだ。
だから聞いてよ、なぜわたしが、今日まで話せなかったか。その時、どれほど怒り、痛かったか。薬物や自傷は心の傷をしばし忘れるためでしかなかった。聞いてよ。やるせなくなって全てを捨てたくなって家出したことを。
聞いている母の反応を一つ一つ、目で追いながら、わたしは冷静に話をした。
母は、あまりもう記憶にないと言いながら、わたしに謝ってきた。
「わたしは悪いことばかりしてきたからね」とポツンと言った。
ちょうど、そのころ、母のキャビネットに「殺してやる」と書かれた色紙が何者かによって置かれていたそうだ。今も、どこかにあるはずだという。「あなたが書いたとしか思われない」わたしには、記憶がない。でも弟たちのはずはないし、きっとわたしが書いて、置いていったものだろう。
「いつか、わたしは殺されると思っていた」と母は言った。
18歳のわたしの書いた「殺してやる」
その色紙が見つかったら、わたしに返してください。わたしのものだから。それは紛れもないわたしだったから。18歳の自分を心から褒めたい気持ちになった。
話終わった後のわたしは、いつになく快活になっていた。
わたしが母との間に長年欲しかったものは、これだった。
翳りのない、晴れやかさ。