大河ドラマ「べらぼう」 蔦屋重三郎と浮世絵師たち 3 | meaw222のブログ

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18世紀の半頃になると、江戸は、100万人を超える大都市へとなっていきます。それまでは、文化の中心そして出版業界の中心は、京都・大阪などの上方でしたが、浮世絵の誕生と共に江戸に新しい出版形態が作られるようになります。

 

江戸独自の出版事情

それが、地本問屋(絵草紙問屋)と呼ばれるもので、地本問屋は、主に大衆娯楽である絵草紙(挿絵入りの本)を取り扱っており、この絵草子問屋が多く集まっていたのが、日本橋であり、それを中心として江戸一円に点在していたのが、販売だけを扱う小売店の「絵草子屋」でした。庶民が気軽に浮世絵を購入できたのも近所に絵草子屋があったからで、この時代の浮世絵人気を大きく後押ししたといえます。

 

また、この時代に、木版刷りに耐えうる強度のある紙が、大量に生産されるようになったのも、浮世絵人気に大きく寄与しています。木版で大量に刷ることにより、コストを下げ、浮世絵の流通が安定した江戸後期、一般的な多色摺版画サイズの大判錦絵(縦39cm×横26.5cm)は20文程度、細判(縦33cm×横15cm)の役者絵は8文で売られていたそうです。人気が下がると3~6文の安値で売られていた。また、最初から購入しやすい金額になるよう、あえて小さいサイズで作られた浮世絵も多数あったそうです。

 

 

これらの価格を、江戸時代に蕎麦1杯16文を基準として、全国平均 日本そば(外食)1枚の平均価格(2024年5月)の694円で計算すると、現在では1文=43.3円となり、大判錦絵では、現在の価格で866円。細判では346円と非常に手軽に買える値段となっています。これも浮世絵が広まった大きな理由の一つと言えます。(1文が現在で何円になるかは、資料によりかなりばらつきがあります。但し、今回は、江戸時代の蕎麦1杯の値段と現在の蕎麦1杯の値段から割り出しています。これは、1文銭の貨幣として価値ではなく、インフレ率等を加味した現在の価格を表示しています。)

 

江戸の貨幣制度

因みに、当時、庶民が普通の買い物で使用していたのが、時代劇「銭形平次」で平次が、投げている一文銭が使用されていました。当時の貨幣は、4の倍数で決められており、1両=4分=16朱であり1朱=250文となります。よって、1両=4千文となります。但し、徳川家康により、金貨(小判)が通貨として使用され始めて以来、幕府が財政難となる度に、この金貨の金の含有量を下げるなど、金貨の価値は時代が下がるにつれ、大きくその価値が低下しています。その為に、大坂・京都などの上方では主に金貨(小判)でなく銀が貨幣として流通していました。これを指して「江戸の金遣い、大坂の銀遣い」と言われています。

 

「江戸煩い」と蕎麦

また、よく江戸時代の物の値段を計る基準として、蕎麦1杯の値段が使用されていますが、これは、江戸中期では、庶民が、毎日のように食べていたのが、蕎麦だったそうです。その為に、蕎麦の値段が資料等に多く残されており、かつ、物価に関係なく価格が安定していた為です。

 

何故、江戸で蕎麦がよく食べられていたのかと言うと、これには、江戸の庶民の食事事情が大きく関係しています。

 

江戸時代の中期に徳川吉宗によって行われた享保の改革で、米の収穫量は格段に増加したと言われています。また、水車を使った精米の技術の向上により、白米は身分や地位に関わらずこの頃から一般的に流通したと言われいます。

 

この為に、江戸の町では、庶民の食事は、白米が中心となります。しかし、肉食が禁忌されている食文化において、需要の高い魚が高価な食材となり、庶民が口にすることは少なかったようです。一般的に、白米に味噌汁、香の物など、一汁一菜が基本であり、兎に角、腹を満たすために白米を多く食べていました。

 

このような食生活が一般的だった江戸では、「江戸患い」という命に係わる謎の病気が蔓延していました。

 

この「江戸患い」とは、精米した白米だけを食べていたために、お米の胚芽に含まれているビタミンBが不足して起こる病気ですが、当時は、医療が発達していなかったので、その原因が不明であり治療法が解明されていませんでした。蔦屋重三郎も、この江戸患いが原因で死亡したと言われています。

 

しかし、理由は分かっていませんでしたが、蕎麦を食べると何故か調子がいい事に気が付きます。この為に、蕎麦をよく食べている人は江戸患いにかかりにくいという噂がまことしやかにされるようになります。そして江戸では、蕎麦がうどんよりも食べられるようになっていきます。蕎麦は穀類の中でもビタミンB類の含有量が多い。つまり、噂は正しかったのです。

 

さて、蕎麦の汁ですが、江戸時代中期の『料理物語』のうどんの記述を見ると、蕎麦の汁は(煮貫/にぬき)「味噌一升に水一升を加えて混ぜ、布袋に入れて吊し、滴り落ちた生垂(なまだれ)に鰹節を入れて煮立て漉(こ)したもの」と記されています。つまり、江戸中期では、そば汁には味噌ベースであったことが分かります。これは、江戸では、醤油が大坂の問屋からの「下がりもの」であり、流通量も少なく、酒よりも高価であったためです。19世紀になって、関東周辺でも醤油を作り始めるようになり、流通量も増え、価格が下がったことにより今日の醤油ベースの汁となります。

 

謎の浮世絵師 東洲斎写楽

今日も、やはり、最初から散文の様に、「あちらこちら」と方向が定まらない文となりましたが、ここからが、本日の本題となります。

 

さて、蔦屋重三郎は、前回書いた喜多川歌麿をお抱え絵師として、手塩に掛けて育て上げますが、歌麿と重三郎は、歌麿が自分の書きたい絵を自由に描きたいためとも、その他、知られていない別な理由が有ったかもしれませんが、或る時から、袂を分かつこととなります。

 

しかし、最初から最後まで、ずっと蔦屋重三郎のお抱え絵師だったのが、東洲斎写楽です。

この写楽は、役者絵が有名な絵師となりますが、寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年(1795年)1月にかけての約10か月の期間(寛政6年には閏11月がある)内に、わずか134点余の作品を残して忽然と消え去ります。

 

引用先:シカゴ美術館コレクション「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」

 

蔦屋重三郎は、この絵師につてい一切他言していませんが、最近の研究では、阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ)とする説が有力となっています。

 

しかしながら、前期と後期では、全く別人とも思えるほどに作風が異なること、そして、僅か10か月の内に134点(役者絵103枚、役者追善絵が2枚、相撲絵が7枚、武者絵が2枚、恵比寿絵が1枚、役者版下絵が9枚、相撲版下絵が10枚)の浮世絵を描いている事から、「写楽別人説」(複数の人間が写楽の名で描いたもの)もささやかれています。

 

喜多川歌麿の浮世絵が、やや写実的であったのに比べて、東洲斎写楽の浮世絵は、人物がディフォルメされており、かつ、コラージュも施され、浮世絵の一般的なイメージ(蔦屋重三郎が考える浮世絵のスタイル)が全て入れられている作品となっています。

 

有名な浮世絵には、歌麿の「美人画」の他に、今回の写楽の「役者絵」や、歌川広重の「東海道五十三次」などの「風景画」があります。

しかし、蔦屋重三郎が、最後に出会ったのが、これらすべてのジャンルで天才的な画風を持ち、浮世絵を完成させた葛飾北斎でした。

 

次回はこの北斎について書きたいと思います。