名作の裏側 「風と共に去りぬ」その2 | meaw222のブログ

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今日は、前回に続き名画の裏側「風と共に去りぬ」について書きたいと思います。

 

この映画「風と共に去りぬ」が完成するまでに、まだ、数々の困難が横たわっていました。

 

産みの苦しみ

 

小説「風と共に去りぬ」を映画化するに際して、最初に立ちはだかった問題が、脚本でした。

何故なら、この時点で、小説「風と共に去りぬ」は、聖書の次に読まれている本とされており、読者の期待を裏切ることが出来なかったために、脚本については特に慎重に時間をかけて行う必要があったのでした。

 

原作の語り口や全編に流れる雰囲気を保ちつつ、ストーリーを短縮するには、当然、小説を翻案する必要がありました。製作者のセルズニックの最大の課題がこのストーリーの短縮をどの様にするのか、小説のもつ魅力を映画でどの様に表現するかでした。

 

脚本家としてクレジットされ、またオスカーを受賞しているのはシドニー・ハワード1人ですが、彼の書いた脚本は6時間にもわたるもので、その後15人の脚本家が次々に脚本を短くするために奮闘します。

 

その中の1人が小説『グレート・ギャツビー』などの作品で有名な小説家F・スコット・フィッツジェラルドです。

「ロストジェネレーション」の旗手と言われている小説家フィッツジェラルドは、「ロストジェネレーション」的手法(「氷山理論(アイスバーグセオリー)」=もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない)により、無駄な会話を減らし、その代わりに登場人物たちの行動でストーリーを暗示させ、この映画に哲学的な要素を入れることに成功しています。

 

また原作は、スカーレットとアトランタそれに加えてジョージア州民の視点から見た南北戦争の3つが、重要なテーマとしてほぼ均等に描かれていますが、ストーリーを短縮するために、スカーレット一人にテーマを絞り、かつ、スカーレットの容貌も原作とは大きく違い、強烈なキャラクターはそのままに、画像的にも引立つように、ハリウッド史上最も美しいヒロインの一人に数えられるほどの美人へと変更しています。

 

更に、悪名高い「ヘイズコード」(映画倫検)により、小説の各部分を修正。また、小説が黒人奴隷制が存在していた1890年代を舞台としていることから、黒人の人種差別をどう映画で表現するかも考える必要がありました。

 

セルズニックは、この映画を人種差別的な作品にする心算(こころづもり)はなく、「映画にはKKK団への言及も、黒人による暴力のシーンも含まれず、黒人の感情を刺激することを避けること。名誉毀損となる表現はいっさいしないこと、小説の中で黒人たちに明らかに不快感を催させるようなものは、物語の主要な要素からは削ること」を全国黒人地位向上協会に約束しています。(とは言っても、映画が作られた当時は、許されても、現在的に考えると十分差別的なセリフや場面が登場しますが。)

 

少し話は脱線しますが、この映画の人種差別についてですが、良く評論などで「奴隷制を美化している」とか「白人目線である」とか批判されていますが、この南北戦争の時代では、良い悪いは別として、実際に奴隷制度は存在しており、これを現在の感覚で批判し、歴史そのものを否定するのはどうかと思っています。これこそが、事実の隠蔽であり、一方的に考えを押し付ける行動であり、個人的には非常に心の狭い(視野の狭い)行いであると思います。

 

 

この様に、セルズニックは、数々の制限の中、奮闘しますが、ようやく5時間までに削減します。しかし、さらに映画用に4時間以内にまで内容を絞る必要があり、最終的には、撮影が始まっても自ら改稿を続けることとなります。これが、次なる問題を産み出すことになるのですが。

 

困難続きの撮影現場

 

ジョージ・キューカー監督により、撮影は1939年1月26日にオープニングのシーンから開始されます。しかし、脚本の改敲は続いており、セルズニックは次の日に撮影する部分の脚本を前日に書くという不安なシステムであり、その為に、監督のジョージ・キューカーは、原案のスカーレットを中心とした人物描写をそのまま使用することをセルズニックに要求します。

 

更に、ジョージ・キューカーは、俳優との対話でそれぞれの心情と人物関係を浮かび上がらせていく演出法をっており、セルズニックが要求していた撮影のテンポを上げることができずにいました。

 

また、現場では、大スターで一番影響力のあるクラーク・ゲーブルも、女優の演じる役を最大限に引き立てると定評のあるキューカーの演出法に、自分が蔑ろにされているように感じており、不満に感じていました。

 

キューカーがセルズニックの脚本に従うことも、もっとペースを上げて、人間模様でなくもっぱら視覚に訴える映画映えのする、そして大衆受けのするスペクタクルに重きを置くようにという要請も蹴ったことで、セルズニックは2月13日に撮影開始から僅か18日でキューカーを監督から外します。

 

キューカー監督の後任についてたのが、クラーク・ゲーブルの大親友であるヴィクター・フレミング監督でした。

 

(左から、製作者のセルズニック、中央がビビアン・リー、そして右がフレミング監督)

 

フレミング監督は、『オズの魔法使』で有名な監督ですが、又の名を「男性映画の監督」と呼ばれており、その上に、『オズの魔法使』を当初はキューカー監督が担当していましたが、この「風と共に去りぬ」に引き抜かれたために代役として監督をしており、キューカー監督とは因縁のある監督でした。

 

また、フレミング監督は、そのあだ名通り、女性の心情を繊細に表現することは苦手であり、やや大雑把であり、何方かと言えば、スペクタクル映画向けの監督でした。その為に、ヴィヴィアン・リーとオリヴィア・デ・ハヴィランドとは、対立します。

 

ヴィヴィアン・リーは、結局、キューカー監督が外れた後も、こっそりキューカーの自宅を訪れて演技指導を受けていたと言われています。リーはこれを撮影が終わるまで続けていましたが、ハヴィランドもリーに知られないで同じことをしていたと言われており、結局、完成された映画には大いにキューカー監督の影響が残ることとなります。

 

フレミング監督も、キューカー監督と同じようにこの脚本では撮影出来ないと判断。そのためセルズニックはベン・ヘクト(脚本家、劇作家、小説家、映画プロデューサー)を招聘(しょうへい)。セルズニック、フレミング、ヘクトら3人は、シドニー・ハワードの脚本を掘り返し、ようやく使えるものを組み立てることができました。フレミングは、この映画に、前任者のキューカー監督とは違い、複雑な人間関係ではなく、大衆娯楽としての明晰さと映画映えのする壮大さに力点を置いていました。

 

3月2日、再びオープニング・シーンから撮影再開。ただし、セルズニックは相変わらず脚本を毎日改稿していたため、撮影スケジュールはタイトとなり、撮影は1日12時間から18時間にまで延びており、3班のクルーが現場に常に待機しており、ほぼ24時間態勢で撮影が続いていきます。

 

主演のビビアン・リーは、撮影日数の殆どに出演しており、仕事が全くない日はなかったほどでした。特に、タラでもう二度と飢えはしないと誓うシーンでは休憩なしで22時間ぶっ続けに働き、その後4時間眠り、翌日は戦争前のアトランタのシーンを撮っていたと言われています。

 

しかし、そんな過酷な環境でも、リーはスタッフが帰り支度を始めると「もう少しお願い」と言って、さらに撮影をしていたと言われています。これは、1日でも早く撮影を終わらせて、恋人のローレンス・オリヴィエのもとに行きたがっていたからです。

 

更に、スカーレットをキツイ性格で、意地の悪い女に描き出そうとしていた監督のフレミングに対して、リーはスカーレットをもっと心根の優しい女として演じようとして対立します。リーは原作をいつもセットに持って来ており、スカーレットの性格が変えられていると言って抗議し、リーが涙を流し、フレミングが怒りに燃えて1日が終わることがしばしばあったと言われています。

 

これらの現場の過酷な環境が積み重なり、スカーレットが階段から落ちた後レットが泣くシーンでゲーブルが泣くことを拒み、リーが演出に文句をつけたことでさらにこじらせ、何週間も肉体と精神両面の疲れと戦ってきたフレミングはとうとう耐えられなくなり、セットから出て行ってしまいます。

 

上の様に書くと、クラーク・ゲーブルとビビアン・リーが、不仲であると思われがちですが、ゲーブルとリーそしてメラニー役のハビランドとは、気が合っていたそうです。実際には、リーと犬猿の仲だったのが、スカーレットが憧れていたアシュレー役のレスリー・ハワードだったそうで、これが演技の上でもいい効果となっています。

 

セルズニックは、この様な事が起こることを察知しており、直ぐにMGMのサム・ウッドに交代監督として担当させ撮影を続行。結局、15人の脚本家、3人の監督が関わり、主要部分の撮影は6月27日に125日間で終了します。今なら200日かかっても撮れないだろうと言われています。(フレミング監督は、半月後に現場復帰をし、サム・ウッドはそのまま第2班の監督としてとどまります。)

 

因みに、代役となったサム・ウッド監督は、アカデミー賞で、「風と共に去りぬ」の対抗馬となった「チップス先生さようなら」の監督であり、今では絶対に考えられないような豪華なスタッフでした。

 

ポストプロダクション

 

撮影したフィルムは50万フィート、そのうち上映時間にして29時間半になる16万フィートがプリントされ、これを、セルズニックと編集技師であるハル・カーンと共に、1日22時間、時として連続50時間かけて編集します。

 

9月9日に、どうにか上映できる形に編集しますが、それでも上映時間はまだ4時間半、タイトルは絵であったし、音楽はまだ出来上がっておらず別の映画のものを使用していました。

この状態で、覆面試写会を敢行します。その場に立ち会った観客は、タイトルにマーガレットミッチェルの名を見つけて歓声を上げたそうです。また、試写後のアンケートでも絶賛の嵐でした。

 

その後、更に最終2万フィート、222分の長さまで切り詰め、タイトル場面を作成、音楽もマックス・スタイナーに依頼し、有名な「タラのテーマ」が完成します。

 

 

そして、1939年10月18日にはサンタバーバラのアーリントン劇場でもう一度覆面試写会が行われ、そこでも再び絶賛の嵐が巻き起こります。このあとさらに10日間の追加撮影を行い、11月11日に最終の追加撮影が終了。

 

満を持して、1939年12月15日金曜日、南部のアトランタでワールド・プレミアが開かれ。映画「風と共に去りぬ」が、正式に公開されます。プレミアが開かれた劇場の座席数は2051、入場料が50セントの時代に通常の20倍の10ドルという高額料金でしたが、6万人から応募があり、抽選になる程の熱狂的な騒ぎとなります。

 

また、当日の上映後、原作者のマーガレット・ミッチェルがゲーブルにエスコートされて舞台に立ち、「この映画は私に素晴らしい感動を与えてくれました」「色々言われながら理想の配役が得られるまで、黙り通したセルズニック氏の決意は賞賛に値します。そして配役は完璧だったと思います。」と感想を述べています。

 

 

 

なぜ、この映画が不朽の名作と言われるのか?

 

この映画について書いた私のプログが、映画レビューで6位に挙げられるなど、この85年前に製作された映画は、未だに多くの人を惹きつけてやみません。

 

この映画の魅力を正確に書くとすると一冊の本が書けるほどの量となります。実際、この映画の考察本も何冊も発売されているほどです。

 

まず第一には、後に「ビビアン・リーは、スカーレットを演じるために生まれてきた」とまで言わしめた程の存在感です。ビビアン・リーがスカーレットを演じていなければ、これほどの名作になったかどうかは疑問です。

 

そして、やはり、この「風と共に去りぬ」は、スカーレットの存在を抜きにしては語れません。

 

スカーレットという女性は、当時のアメリカで一般的だった女性像とは随分とかけ離れています。頑固で強情、自己中心的で野心家、自分を押し通す強さを持ちますが、ヒステリックで我がままな側面があるスカーレット。当時の女性の美徳であった「慎み深さ」とは程遠い性格でした。

 

また、まるで彼女があらゆるトラブルを引き寄せているみたいに、スカーレットに次から次へと逆境や試練が押し寄せます。もしもスカーレットが何もかもを手に入れて、高らかに哄笑して幕を閉じる物語なら、これほどの名作とはならなかったでしょう。

 

しかし、これらの逆境をものともしないスカーレットの不屈の精神は、あらゆる倫理やモラルをはるかに超越して観客の心の奥底を揺さぶります。つまり、逆境・困難含めてのヒロインとして、スカーレットは仰ぎ見られる存在としてスクリーンに登場します。

 

とは言っても、強いだけの存在ではなく、スカーレットの強烈なキャラクターに隠れていますが、家族を思い、仲間を大切にする気持ちを同時に持ち合わせています。時には弱さをさらけ出しますが、その彼女を支えているのが、先祖代々の土地「タラ」であり、レットやメラニーなどスカーレットを真に理解している人物たちです。

 

また、この「風と共に去りぬ」を良く見てみると、原作者のマーガレットミッチェルが、言っているように「真のヒロイン」は、メラニー・ハミルトンです。すべてのストーリーの起点が、このメラニーによって引き起こされています。そして、スカーレットは、それら全てを受け止めて、話を更に進めているだけです。

 

 

 

前半の最終場面で、火の海となったアトランタから、困難を乗り越えてタラへと戻ってきたスカーレット。だが、母は亡くなり、父はショックから狂気に陥り、産後のメラニー、メラニーの生まれたばかりの子供、そして、妹たちも弱っていた。加えて、食料はすべて北軍に持っていかれており、絶望の淵に立たされたスカーレットだったが、庭のニンジンをナマのままかじりつき、神に対して誓います。

 

Scarlett: As God is my witness, as God is my witness they're not going to lick me. I'm going to live through this and when it's all over, I'll never be hungry again. No, nor any of my folk. If I have to lie, steal, cheat or kill. As God is my witness, I'll never be hungry again.

 

スカーレット「神よ。私は打ち負かされなどしません。この試練が終わるまで生き抜きます。私も、私の家族も、二度と飢えたりなどしません。必要なら、嘘もつき、盗み、騙し、人殺しだってします。神よ。私は二度と飢えたりなどしません」

 

 

戦争を体験した者にしか理解できない飢えの苦しみと生きることへの執着心が、強く現れている印象深い名シーンです。

 

この映画が作られた第二次世界大戦の前中後で、この言葉に勇気づけられた人が多くいたことは、想像に難くありません。この為に、この映画は、戦争を跨いで、何度となくリバイバル上映されたのです。

 

また、レットとスカーレットはその激しい性格ゆえににすれ違いばかりですが、二人のロマンスはこの映画の見所であるといえます。

 

レットは、スカーレットと似たもの同士で、「僕の内部にもきみと同じ性質がある」と語り、出会った時からスカーレットに惹かれています。それゆえに、プライド高いところや、その向こう見ずな性格すらも愛しく思っていたでしょう。その為に、最後にスカーレットを助けるのはこのレットでした。

 

しかし、お互いに似ているために反発しあうことも知っているために、レットはスカーレットにその情熱を伝えてはいけないと悟っていました。想いの半分も正直に伝えずにいたわけですが、レットは後にスカーレットのことを「苦労を知らない少女のままで居させてあげたかった」と語っているシーンが、登場します。ここに、レットの隠しきれないスカーレットへの愛が垣間見えます。

 

レットはスカーレットとの娘ボニーを溺愛し我がままに育てるのですが、まるで、スカーレットに与えたかった愛情の全てをボニーに向けるかのように。

 

そんなレットとスカーレットの関係も、メラニーが起点となって変わってゆき、アシュレーへの恋が、手に入れることの出来ない事に対する執着でしかなかったこと、そして、スカーレットにとって、真に必要な人がレットであることに気が付きます。

 

また、メラニーを失う事により、レットとスカーレットを結び付けていたものが、ほどけて二人の関係が崩壊します。

 

そのシーンが、この映画のラストで描かれており、レットは、スカーレットに対して

 

Frankly, my dear , I don't give a damn .  率直に言って、俺の知ったことか!

 

といった最後の言葉となります。この「damn」とは、非常に強い言葉であり、レットのスカーレットに対する愛が完全に消滅したことを表しています。

 

この時に、スカーレットが発したのが、有名な言葉「after all , Tommorow is another day(明日に望みを託して)」です。

 

この言葉は、聖書の一節とも言われていますが、この言葉自体には、あまり意味の無く、スカーレットにとっては、困難に立ち向かうときに、困難に負けて絶望しないための「おまじない」でありスカーレットの口癖のような言葉です。

 

スカーレットは、大切なものを二つとも失い、残ったのは、「タラ」の土地だけ、したがって、唯一残った支えである「タラ」の土地で、「禍福は糾える縄の如し」の例え通り、今日はダメでも、明日には好転すると自分を勇気づけます。

 

 

 

この様に、時代が変わってもブレない、大切な考え方が「風と共に去りぬ」の登場人物たちのセリフに溢れています。これが現代でも名作と呼ばれる一つの要素なのかもしれません。

 

 

最後に、この「Tommorow is another day」に関連した感動の秘話を紹介して終わります。

 

1975年10月8日と10月15日に日本テレビ の『水曜ロードショー』で前後編に分けて「永遠の超大作完全放送『風と共に去りぬ』」の題名で世界で初めてテレビで放映され、視聴率が33%という高いものでした。

 

この映画の反響は大きく、同番組の解説者で映画評論家の水野晴郎さんのもとには、視聴者から多くの手紙が寄せられます。その中で、一通の厚い封書が目にとまった水野さんは読んでみると、九州で妻と高校生の娘と三人暮らしをしているという男性視聴者からの便りで、以下のような内容が書かれていたそうです。

 

『私は下町で工場を営んでいましたが、不況に襲われ倒産しました。借金に追われてどうしようもなくなり、妻と話してついに一家心中を決めました。ですがそんな時、何も知らない娘が見ていたテレビの中から女の人の声が聞こえました。


"明日に望みをたくして!"。風と共に去りぬのラストです。


その時の心境はテレビどころじゃなく、ぼんやり画面を見るともなく眺めていたので物語も役者のことも全然わからないのですが、その声に思わず金づちで頭を殴られたような気がしました。
その晩、妻と二人で寝ないで、自分たちの明日についてもう一度考えなおしました……。一家心中やめました……。』

 

この手紙を読んだ水野さんは涙が止まらなかったといい、後に以下のように述べています。

 

「このたった一つの言葉。TVで放映された日本語の「明日がある!」が今、この三人の命をすくった。私が映画の仕事をしていてはじめて人様の役に立ったということとともに、人生のすばらしさをしみじみと感じた。


こんな映画こそが傑作だと思う。どんなむずかしい理屈を語る芸術映画より、人に勇気と希望を与える映画こそが永遠の名作だと私は信じる。


私は「風と共に去りぬ」が大すきである。」 —  水野晴郎