雨と映画 | meaw222のブログ

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映画・ドラマの部屋

 

映画を見て、感情が揺り動かされるのは、ある心理的な現象が関係していると言われています。

その心理的現象とは、「クレショフ効果」又は「モンタージュ効果」と呼ばれるものです。

これは、人間(脳)が本来持っている機能で、数多い認知バイアスの一つです。

 

「クレショフ効果」又は「モンタージュ効果」とは、映像の各カットがモンタージュ(編集)され、映像の前後が変化することによって生じる意味や解釈の変化のことをいいます。

 

第1のモンタージュでは、スープ皿のクローズアップを置きます。 その後に男性のカットを入れます。第2のモンタージュでは、スープ皿のかわりに、棺の中の遺体を置きます。 第3のモンタージュでは、棺の中の遺体のかわりに、ソファに横たわる女性を置きます。

 

 

それぞれのシーケンスを見た後で、男性があらわす感情を被験者に答えさせた結果、第1では空腹を感じ、第2では悲しみを感じ、第3では欲望を感じたと言う答えが多かったそうです。

人間の脳は、この様に、前後の画像を一連の物として認識し、そこに感情(情動)を生じさせます。

 

名監督と言われる人は、この認知バイアスを上手く使用し、カットを繋ぐことにより、見る人の感情(情動)を上手く引き出します。

 

日本の名監督を例に述べると、小津安二郎監督の「小津調」と呼ばれるカット手法は、ローアングルでかつ、イマジナリーラインを敢えて無視し、人物を正面から撮影し、これを編集します。

これにより、名画を見るように、静の動きで人物の感情の揺らぎをより分かりやすくしています。専門的には、これをエイゼンシュテイン・モンタージュと呼ばれているそうです。

 

また、この「小津調」では、カットバック手法を多用しているのも特徴となっています。

この例としては、人物が映し出された後に、次のカットに、下町の情景や空のシーンを挟み、また、人物へのカットに戻ることにより、その人物の置かれた環境や時間がシーンに加わり、人物の心情がより強調されることとなります。これは、現在では、アニメで良く見られるカット手法です。

 

一方、動の動きが特徴的なのが、黒澤明監督のカット技法です。これは、グリフィス・モンタージュと呼ばれる技法であり、黒澤監督が「七人の侍」でこの技法を取り入れており、後に、これをスティーブンスピルバーグ監督などの新進の映画人により模倣され、現在では主流のカット技法となっています。

 

この技法は、複数のカメラ(マルチカメラ)により、同時撮影され、編集の段階でカット毎に切り替え、映像に躍動感を産み出しています。

 

そして、黒澤監督が、更にこのカットシーンを強調するために使用したのが、背景でした。

その背景に、自然現象、例えば風、雪そして雨を使用することにより、更に見る人の情動を揺り動かせています。

「羅生門」で、黒澤監督が雨を強調するために、只の水ではなく墨汁を降らせることにより、より雨を強調させたのは有名な話です。(当時は、白黒画面であったために、雨を降らせても、感じにくい(見にくい)ためでした。)

 

という事で、今日は、観客の情動を高めるための道具である雨が、効果的に使用されている映画を紹介していきたいと思います。

 

  映画に見る雨のシーン

昔から、この雨が使用されているシーンは、数多くあります。

 

例えば、映画「雨に歌えば」で、ジーン・ケリーが土砂降りの雨の中、主題歌「sigin in the rain」を歌いながらタップダンスを踊る場面、「ティファニーで朝食を」の最終場面で、主人公のホリー・ゴライトリーが逃がした猫を雨の中探すシーンなど、これら映画史にのこる名シーンがあります。

 

映画「ティファニーで朝食を」に感じる違和感

この映画「ティファニーで朝食を」の評価は、大きく分かれています。

ある人は名作といい、ある人は最初と最後のシーンだけの映画だと言います。

 

後者の批判は、あながち間違ったものではありません。また、この映画の有名な主題歌「ムーンリバー」の歌詞の内容も、映画には似つかわない内容となっており違和感を抱いている人も多いと思います。

 

その理由は、実は、この映画の原作となっているトルーマン・カポーティの同名の中編小説とは、特にこのオープニングとラストシーンが全く違うからです。つまり、設定や主人公たちの人物設定が、小説のままでありながら、映画ではこのオープニングの解釈の違いと雨の中のラストシーンにより全く違った作品となっているからです。

 

まずは、オープニングですが、

 

 

映画では、冒頭のシーンでホリーが開店前のティファニーのお店の前で朝食を食べるシーンが出てきたせいで、「ティファニーで朝食を」のタイトルの意味を誤解しがちです。原作には、このシーンはなく、「ティファニーで朝食を」という言葉にはもっと深い意味があります。

 

小説では、「リッチな有名人になりたくないってわけじゃないんだよ。私としてもいちおうそのへんを目指しているし、いつかそれにもとりかかるつもりでいる。でももしそうなっても、私はなおかつ自分のエゴをしっかり引き連れていたいわけ。いつの日か目覚めて、ティファニーで朝ごはんを食べるときにも、この自分のままでいたいの。~私たち(ホリーと名無しの猫のこと)はお互い誰のものでもない、独立した人格なわけ。私もこの子も。自分といろんなものごとがひとつになれる場所をみつけたとわかるまで、私はなんにも所有したくないの。

 

つまり、ティファニーで朝食を食べることができるくらい裕福になっても、自分の気持ちに正直でいたい。自分のエゴを失いたくないということなのです。だから実際に原作では、誰もホリーを自分のものにすることはできません。彼女はスルスルと人の手の抜けていく、猫のように掴みどころのない独立した人間として描かれています。

 

そして、原作と最も違うシーンが、ラストシーンです。

原作では、このラストシーンが、原作と映画では180度違います。

 

 

そもそも、原作では、オードリーヘップバーンが演じたホリーとジョージペパードが演じるフレッドは、恋愛関係になく、捨てた名無しの猫は、その場では見つけることが出来ず、そのことでホリーは涙するものの、結局彼女はブラジルに飛び立ってしまいます。

 

そして後日、フレッドのもとに、ブラジルで新たな男性と交際していることを知らせるホリーからの葉書が一通届きますが、それ以降は音信不通になります。

 

フレッドは後に、名無しの猫がある家の窓辺に気持ちよさそうに座っているのを発見します。しかし、それを彼女に伝える手段もなく、ただ安心できる居場所を見つけた猫のように、ホリーも彼女の言う「ティファニー」のような場所を見つけて、そこで幸福に暮らしていることをただフレッドは願うのでした。

 

という風に結末が小説では描かれています。

 

期せずして、トルーマン・カポーティは、この小説の中で主人公のホリーを、現在の女性が最も理想としている自由で独立した女性を描いています。

然しながら、この映画の作られた時代(1960年代)の女性は、まだそのような理想は存在せず、結果として、陳腐な恋愛映画となってしまったという事です。

 

この映画「ティファニーで朝食を」が、不幸だったのは、オードリーヘップバーンの魅力が前面に出すぎたために、ホリーの真の人物像がかすれてしまった事。そして、この小説で描かれた女性像が、時代を先取りしすぎていたという事ではないかと思います。

 

とは言え、オープニングのカットの仕方(主人公のホリーの移動方向とシンクロしたカット)とエンディングの雨の中でのオードリーヘップバーンの演技は、映画史上に燦然と輝くシーンとなっています。

 

  集合的無意識と雨

ユング心理学によると、人間のこころは,自我意識と無意識からなり,無意識には,幼児体験とか忘れた過去の体験などの個人的無意識と,遺伝的本能的なものも含めた人類の普遍的無意識または集合的無意識があると定義しています。

そして、集合的無意識は、心象風景を作り出し、それが、雨というイメージで現れることがあります。そして、この雨というイメージを効果的に使用した映画があります。それが、映画「いま、会いに行きます。」です。

 

いま、会いに行きます。

この物語の主人公である秋穂巧は、1年前に最愛の妻である澪を亡くし、1人息子の佑司と慎ましく過ごしていました。

生前妻であった澪は、二人に「1年たったら、雨の季節に又戻ってくるから」という言葉を残します。それから1年後、その言葉通りに雨の季節に2人の前に死んだはずの澪が現れます。

2人は喜びますが、澪は過去の記憶を全て失っていました。かくして、不思議な3人の共同生活が始まります。

 

 

この映画の挿入歌である「時を超えて」は、何度聞いても感動する曲であると思います。

 

現在から過去へ、そして過去から現代へというタイムスリップを扱った難しい設定を、ストーリーの視点を、前半は巧そして後半は澪にすることにより、自然に受け入れられるものとしています。この辺りのブロットの上手さは、他に例を見ないものであり、原作の小説の構成が如何に素晴らしいものであるかを実感させます。

 

余談になりますが、この映画では、過去と現在の巧と澪は、別々の俳優さんが演じています。

現在の巧が、中村獅童さんで同じく澪は竹内結子さん。そして過去の巧が武井証さん同じく澪を大塚千弘さんが演じています。

 

別々の俳優さんが演じているのに、現在と過去の主人公たちがまるで同じ人物のように見えます。確かに、顔かたちが似ている俳優さんを配しているのもありますが、何度もこの映画を見ていると、目元が非常に似ており、かつ、過去の役を演じた武井証さんと大塚千弘さんが、現在を演じている中村獅童さんと竹内結子さんの目元の動きを真似て演技をしていることに気が付きました。

 

良く刑事さんが、指名手配犯を見つける時に、目に注目するといわれています。つまり、幾ら変装しても目は変えることができないそうで、裏返せば、目元や目の動きが似ていれば、それ以外が少々違っても同じ人物に見えると言えるのでは。

 

さて、本題に戻ります。

 

この映画は、この雨を只の自然現象ではなく、色々な意味を持たせています。また、日本の初恋の心象風景である「雨(夕立)」そして「夏祭り」がストーリーに寄り添い更に感動を高めています。

 

この「いま、会いに行きます」は、韓国でも大きな反響を与えます。韓国でもこの映画が、多くの人に受け入れられたのには、ある理由があります。それが、小説「ソナギ」の存在です。

 

小説「ソナギ」と韓国人の初恋感

小説「ソナギ」は、小説家・黄順元が1952年に発表した作品であり、この小説を知らない人はいないと言っても過言でないほどで、韓国の中学校の国語の教科書にも採用されいるこくらい韓国では有名な短編小説です。

 

お話は主人公の少年と少女の出会いから別れまでを田舎の素朴な景色を背景に描かれています。
そして、この短編小説のキーとなっている単語が、「初恋」「小川」「おんぶ」そして「ソナギ(夕立)」です。

 

つまり、韓国人にとっては、「初恋」と「夕立」が心情的に結びついています。

その為に、「雨(夕立)」がテーマとなっている「いま、会いに行きます」は、韓国で受け入れられることとなります。

 

しかし、受け入れられたとはいっても、韓国では自国文化の保護のため、また大日本帝国の韓国併合とその後の日本統治時代(1910年-1945年)の影響による国民感情を害するとして、日本の漫画や映画、音楽(邦楽、J-POP)など大衆文化を法令で規制されており、映画そのものが韓国で広く鑑賞されていたわけではありません。

 

しかし、この「いま、会いに行きます」は、根強い人気をもっており、2018年に韓国でソ・ジソブ、ソン・イェジン出演する映画「be with you」としてリメイクされます。

本作は、韓国版ならではの要素やオリジナルエピソードも盛り込まれ、本国では公開からわずか15日で動員200万人を突破し、韓国における恋愛映画では最速記録を打ち立てています。

どれだけ、この「雨」と「初恋」が結びついているのか。そして、韓国人にとっての「雨」は、国民的意識の一つとなっているかということを、この記録から見ることが出来ます。

 

 

さて、この小説「ソナギ」は、韓国の恋愛映画には欠かすことの出来ない要素となっています。

例えば、2006年制作でイ・ビョンホンとスエが出演した映画「夏物語」は、夕立、雨宿りが、二人の距離を埋めるシーンで使用されれています。

 

 

また、この小説「ソナギ」を設定だけ変えてストーリーを組んだのが、映画「ラブストーリー」です。2003年公開の韓国映画で、ソン・イェジンとチョ・スンウが出演しています。

ソン・イェジンは、この映画で母と娘の二役を演じています。

 

 

監督は、恋愛映画の巨匠で、「猟奇的な彼女」で有名なクァク・ジェヨンであり、この映画の結末には、母と娘の恋を一つにするといった離れ業を見せてくれます。

 

  メタファー(暗喩)としての雨

日本や韓国の様にアジア文化圏では、この様に「雨」を情緒的に表現していますが、西洋では、若干違って、この「雨」がメタファーとして使用されています。

 

 

ショーシャンクの空に

その代表的なのが、未だに感動する映画として必ずランクインする「ショーシャンクの空に」です。

 

 

この映画は、聖書が非常にストーリーと関連づけられいます。

 

アンディーが看守と交換条件で囚人仲間にビールを振る舞う場面は、ルカの福音書6章38節 「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」想起させます。

 

そして、クライマックス、所長の汚職がバレて,金庫の裏帳簿を取り出そうとすると、それはアンディーの聖書があり、そこには「所長,確かに救いはこの中に」(この言葉は、聖書にはありませんが、同義語としては、ヨハネ黙示録22章12節 :「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。」(悪は滅びる))です。

 

そして中身を開くと、ロック・ハンマーの形にくり抜かれた跡。この皮肉に満ちたシーンをよく見てみると、ロック・ハンマーのページの隣は、モーセに率いられたユダヤ人がエジプトから脱出する「出エジプト記」となっています。

 

そして、この映画の原題「The Shawshank Redemption」の“Redemption”は、キリスト教用語で「神の救済」を意味しています。この「神の救済」こそが、この映画では「雨」なのです。

 

この映画では、主人公のアンディーが、脱獄に成功し、雨に降られながらも両手を天に突き出したシーンが、非常に印象的ですが、これこそが、「雨」により脱獄が成功し、そして自由の身になれたことを示しており、その意味では、この「雨」が「神の救済」のメタファーとなります。

 

私個人は、キリスト教徒でもなく、特定の宗教を信じてはいませんが、聖書が隠し味になり、それが、映画に深みの効果を作り上げているのは確かです。

そして、この映画の精神性の深さこそが、この映画を名作と言わしめている理由であると思います。

 

以上が、雨と映画についてです。

 

雨は、時に癒しを与え、食物、動物を慈しみ、そして、時として暴君のように容易に人の命を奪う存在です。だからこそ、人類は、雨を只の自然現象以上のイメージを抱いているのかもしれません。その為に、この雨は、広く文学論から心理学そして映画にまで深く影響を与えているのです。