テーマ曲で綴る名作映画1960年代 その1 | meaw222のブログ

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映画・ドラマの部屋

 

今日から、シリーズで「テーマ曲で綴る名作映画」という題で書きたいと思います。

 

映画の名作紹介については、数多くの人がそれぞれの切り口で書かれていますが、意外とテーマ曲を中心にした批評は少ないと思います。

実際、このブログを書くに当たってインターネットで検索しましたが、テーマ曲と名作映画を同じ比重で書かれたものは在りませんでした。

 

というわけで、できる限りこの名作映画とそのテーマ曲について同じ比重で書いていきたいと思います。

 

このブログを書くにあたって参考にしたのが、AFIアメリカ映画100年シリーズの中の映画音楽100です。

このAFIとは、アメリカン・フィルム・インスティチュート(American Film Institute)の略称であり、映画製作者を教育し、アメリカにおける映画芸術の遺産を顕彰するアメリカの映画団体で、民間資金と一般会員の会費によって運営されている非営利団体です。

 

このAFIが、アメリカ映画100周年を記念して1998年から2008年の10年間をかけて「AFIアメリカ映画100年シリーズ」の発表しています。

映画音楽に関連するものとしては、2004年に発表された「アメリカ映画主題歌100」、2005年の「映画音楽100」、2006年の「ミュージカル映画ベスト100」等が発表されています。

 

しかしながら、このベスト100の多くは、1950年代までのオールドムービーが結構含まれています。

確かに、古い映画も名作は名作ですが、現代では万人受けのものではなく、やはりどちらかと言えば、玄人好みのものとなっています。

 

という事で、今回は、アメリカのハリウッド映画、メジャースタジオが衰退しだし、現在まで続く新しいスタイルの映画が生まれてきた1960年代以降から書き始めたいと思います。

 

  1960年代の時代背景

1960年代の世界の社会情勢は、大きく動きます。

まず、1960年にベトナム戦争が勃発し、1975年までの15年間もの間、アメリカがこの泥沼の様な戦争に突入します。

 

1961年には、ベルリン中央部にベルリンの壁が築かれ、東西分裂、「コールドウォー」が勃発。

 

1962年には、この東西分裂が激化し「キューバ危機」が発生し、世界は核戦争の瀬戸際まで追い詰められます。

 

1963年には、この「キューバ危機」に関連したアメリカ大統領であるケネディ氏がダラスで暗殺されます。この事件の裏には、ソ連の関与が囁かれていますが、調査文書が依然とトップシークレットにされており真実は闇の中となっています。

 

暗い事ばかりではなく、1964年にはアジアで初のオリンピックである東京オリンピックが開幕します。

 

又、1961年のボストーク1号人類初の有人宇宙飛行からソ連とアメリカの威信を賭けた宇宙開発の争いが始まり、1969年7月20日、アポロ11号の人類が初めて月面に降り立ちます。

 

社会全般としては、中国で文化大革命が発生し、過激な社会主義が台頭。これにより大きな混乱が生じます。また、ソ連では、ブレジネフ氏が権力を掌握し、アメリカと激しく覇権争いを繰り広げることとなります。

アメリカでは、泥沼化したベトナム戦争により、反戦運動が活発となります。

 

文化面では、ビートルズ、ボブ・デュラン、ローリングストーンズが登場し、若者文化が大きく変貌します。これにより世界全国でカウンターカルチャーが活発となりアメリカでは反戦運動と共にヒッピー文化が生まれてきます。

 

 

  1960年代の映画の状況

 

1950年代末期から1960年代初頭にかけて、フランスでヌーヴェルヴァーグ(ニューウェーブ/新しい波)と呼ばれる映画運動が起こります。

 

このヌーヴェルヴァーグは、若い監督たちによる、ロケ撮影中心、同時録音、即興演出などの手法的な共通性を持った一連の作品を指しており、既存の映画の概念を根本から打ち崩します。

この新しい波が、アメリカに伝わり、当時のアメリカの社会情勢(ベトナム戦争)と重なり、ヒーロー不在、ハッピーエンドではない結末などが特徴の「アメリカンニューシネマ」が登場します。

 

それと同時に、ハリウッドでは、テレビに対抗意識を燃やしたハリウッド企業の巨大資本化、超大作志向による映画が作られます。

特に、ブロードウェイなどで好評を得たミュージカルが映画化されたり、映画撮影手法技術の高まりによるSF映画の先駈けとなる作品も登場します。

 

 

  1960年代の代表作品

 

ウエストサイドストーリー(1961年)

やはり、60年代らしい映画といえば、このウエストサイドストーリーであると思います。

 

シェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」を基にして、当時のニューヨークの社会的背景を織り込みつつ、ポーランド系アメリカ人とプエルトリコ系アメリカ人との2つの異なる少年非行グループの抗争の犠牲となる若い男女の2日間の恋と死までを描いたのが、この作品です。

 

この映画は、1957年にブロードウェイで上演された同名のミュージカルの映画化であり、ミュージカルと同様の楽曲が使用されています。

作曲は、レナード・バーンスタイン音楽。作詞は、スティーヴン・ソンドハイムが担当しています。

 

ナタリー・ウッドとリチャード・ベイマー主演。これにジョージ・チャキリス、リタ・モレノらが加わり、「トゥナイト」「アメリカ」「マンボ」「クール」「マリア」など、映画の中で歌われる曲も多くの人を魅了する名曲ぞろいです。

これらの名曲に隠れてあまり知られていないのが、この「Somewhere」です。

 

 

ナタリー・ウッドとリチャード・ベイマーのデュエット曲ですが、実は、この劇中のナタリー・ウッドのパートは、別の人間によって歌われています。

 

その人物とは、数々の著名なミュージカル映画において、女優の歌唱シーンの吹き替えを担当していた「最強のゴーストシンガー」として知られるマーニー・ニクソンです。ミュージカル映画全盛期(1950年代 - 1960年代)を、その歌声で支えたことから「ハリウッドの声」「ハリウッドを救った陰の立役者」などとも言われています。

 

その女優の特有の発音や声色まで似せて歌うニクソンは、ハリウッドの業界関係者の間では有名でしたが、スターのイメージを保つために吹き替えはトップシークレットであったため、長年にわたり彼女の存在を世の人が知ることはなく彼女の名や容姿を知っている人は少ないのですが、「王様と私」でデボラ・カーを、「ウエスト・サイド物語」でナタリー・ウッドを、「マイ・フェア・レディ」でオードリー・ヘプバーンの歌を吹き替えており、ミュージカル映画ファンであれば一度は彼女の歌声を耳にしていると思います。

 

しかし、「王様と私」のデボラ・カー自身が、このニクソンの存在を暴露。

それにより、マーニー・ニクソンの存在が世に知られるようになります。その後はミュージカル映画が斜陽となったこともあり、彼女のゴーストシンガーとしての仕事は終わりを迎えます。

 

このまま、ニクソンは、消える運命にありましたが、1965年、ファンの声がスタジオを動かし、ニクソンは映画「サウンド・オブ・ミュージック」で初めて修道女役の一人にキャスティングされて、晴れて銀幕でその歌声を本人の姿とともに披露することになります。

 

 

上記の動画は、マーニー・ニクソンがガンにより死亡した際のCBSニュースの解説です。中盤辺りで「マイフェアレデイ」の劇中歌「I Could Have Danced All Night」を最初の場面は、オードリーヘップバーン自身が歌っているシーンが流れますが、同じシーンで実際に映画でマーニーが歌い使用されたシーンが映っています。

この様に、この「マイフェアレデイ」では、最初はオードリーヘップバーンが歌っているのを撮影されますが、最終的にマーニーが吹き替えしたものが使われました。

 

ウエストサイドストーリーは、シェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」を舞台をニューヨークに置き換えていますが、戯曲に忠実に作られた映画が、1968年制作の当時15歳のレオナード・ホワイティング、当時16歳のオリビア・ハッセー主演の「ロミオとジュリエット」です。

数々の有名な映画音楽を作曲しているニーノ・ロータが、テーマ曲を担当し、ロマンティックな楽曲に仕上げています。このテーマ曲は古今東西の映画音楽の代表的な名曲として、現在に至るまで親しまれています。

 

 

明日に向かって撃て(1969年)

同映画は、実在の銀行強盗ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドの逃避行を題材にした西部劇で、時代に取り残されたものや過ぎ去っていく時代を哀愁を込めて描き出すのが上手いジョージ・ロイ・ヒルが監督をし、主演はポールニューマンと当時無名であったロバートレッドフォード。

 

ストップモーションを効果的に使用したラストは映画史に残る名シーンとして知られる「アメリカンニューシネマ」の代表作の一つです。

ブッチ・キャシディ役のポール・ニューマンとエッタ・プレース役のキャサリン・ロスが自転車に乗ってデートをするシーンで使われたのが、「雨にぬれても(Raindrops Keep Fallin' On My Head) 」です。

 

当初、この曲の作曲者であるバカラックは、この曲をボブ・ディランに依頼しますが、断られ紆余曲折の後に、B・J・トーマスが歌うこととなります。

この曲は、ビルボードでは1970年1月3日から4週連続で1位となり、ビルボード誌1970年年間ランキングでも第1位。

また、第42回アカデミー賞(1970年4月発表)でも主題歌賞を受賞します。

このアカデミー主題歌賞とビルボード年間1位を同時受賞したのは、この曲が初めてで、以後この記録は破られていません。

 

いちご白書(1969年)

「いちご白書」は、ジェームズ・クネンが、コロンビア大学での1966年から1968年までの体験、特に1968年の抗議行動(Columbia University protests of 1968)および学生抗議者による学部長事務所の占拠についてのノンフィクションを基にして映画化されたものです。

1970年・第23回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した青春映画の名作。

「アメリカンニューシネマ」の中でも、最もヌーベルバーグの影響を濃く受け継いだ映画となっています。

アメリカ本国では、あまり注目されていませんが、日本では、「イージーライダー」「俺たちに明日はない」と並ぶニューシネマの名作として認識されています。

 

主人公のサイモンは、ごく平凡な大学生。大学では予備役将校訓練課程校舎建設に抗議しての紛争が起こっていましたが、ボート部に所属していたサイモンは全く学生運動に興味がありませんでした。

しかし、彼は、体育会系の学生に殴られたことなどがきっかけで女性リーダーのリンダと知り合い、彼女にひかれてゆく。

そして、リンダと共に闘争にのめり込みます。やがて大学側は、実力行使を決定。サイモンやリンダはじめ、講堂に立てこもる学生たちは次々に排除されて行くのですが・・・

 

因みに、映画の題である「いちご白書/ The strawberry statement」とは、コロンビア大学の学部長ハーバート・A・ディーンの発言に由来しており、彼(学部長)にとって大学のポリシーに対する学生の意見は重要であるものの、もし理にかなった説明がないものなら、彼にとっては「イチゴが好きな学生が多数派か否か以上の意味を持たない」からきているそうです。

 

ちょっと古い話になりますが、ユーミンがまだ荒木由美という名で活動していた時に発表した「いちご白書をもう一度」の中で歌われていた映画が、この「いちご白書」です。

この映画の主題歌が、ジョニミッチェルの「サークルゲーム」です。

 

この歌を聴く度に、青年時代の甘酸っぱい記憶が蘇り、鼻の奥がツーンとなる個人的には非常に思い入れの強い曲です。

 

 

この映画の最終部分で、主人公たちが講堂で立てこもるシーンで、ジョンレノンの「Give peace a chance」が使用されています。

 

 

ジョニ・ミッチェルは、最近、「コーダ あいのうた」の中でミッチェルの曲である「青春の光と影」で再度有名になっています。

 

 

このジョニ・ミッチェルは、フォーク、ポップ、ロック、ジャズなどのジャンルにとらわれず、ロマンス・女性らしさ・幻滅・喜びへの感情だけでなく、時に社会的で哲学的な理想をも歌い上げる伝説的なシンガーソングライターです。

彼女は9つのグラミー賞や1997年のロックンロールの殿堂入りなど、多くの称賛を受けていて、ローリング・ストーン誌はジョニを「史上最高のソングライターの1人」と最大級の賛辞を送っています。

2022年7月24日、ニューポート・フォーク・フェスティバルにサプライズ出演。フルセットでのコンサートは20年ぶりながら、80歳の現在でも活躍し続ています。

 

映画の年代やテーマがごちゃ混ぜになってしまいましたが、続きはその2で書きたいと思います。