「どうする家康」 戦国時代最後の悲劇のヒロイン千姫 | meaw222のブログ

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映画・ドラマの部屋

 

今日は、「戦国時代最後の悲劇のヒロイン千姫」と題して書きます。

 

ドラマ「どうする家康」では、原菜乃華(はらなのか)さんが演じています。

前回、この原菜乃華さんが、一瞬登場しましたが、ネット界隈では家康の最愛の妻である瀬名姫役を演じた有村架純さん寄りの演技をしていると話題になっています。

 

確かに、この演出はあり得る訳で、史実でも千姫は、家康の初孫であり、家康は千姫を溺愛していたそうです。

ドラマでも、瀬名姫の面影を千姫の中に見出したが為に、家康は千姫を溺愛したという設定だとすると納得がいきます。

 

さて、この原菜乃華さんは、女優として色々なドラマ映画に出演。

2022年11月公開の新海誠監督作品の「すずめの戸締り」でヒロインの岩戸鈴芽役でブレークします。

その後は、「波を聞いてくれ」で主人公の鼓田ミナレ(小芝風花さん)を支える南波瑞穂役を。

そして、最近では映画「ミステリいと言う事勿れ」で、主人公の整を遺産相続事件に巻き込んでいく高校生 狩集汐路(かりあつまり しおじ)役を演じています。

 

また、今までは清楚な女の子役が多かったのですが、今放送中のテレビドラマ「泥濘の食卓」(ぬかるみのしょくたく)では、尾崎ちふゆを演じており、ドラマの中では狂気じみたストーカーの役を演じており、今一番勢いのある女優さんとして活躍しています。

 

さて、本題に入りたいと思います。

 

千姫と秀頼

千姫(せんひめ)は、徳川秀忠とお江(おごう)の長女として、1597年4月11日に伏見城内の徳川屋敷で産まれます。

 

父親である秀忠は、第2代将軍。

母親であるお江は、生母が織田信長の妹であるお市の方であり浅井三姉妹の三女。そして、千姫にとっては秀頼の生母である淀殿が叔母となります。

従って、千姫は、徳川家、織田家そして浅井家の血を受け継いだ女性となります。

 

同母兄弟姉妹は2歳下に妹珠姫(3歳で前田利常に嫁ぐ)、4歳下に勝姫(10歳で松平忠直に嫁ぐ)5歳下に初姫(9歳で伯母常高院の養女となり京極忠高に嫁ぐ)、7歳下に徳川家光、9歳下が忠長、10歳下に和子(8歳で後水尾天皇女御として入内、中宮)がいます。

 

千姫の運命は、2歳の頃にすでに決まります。

当時、天下人であった秀吉の命より、豊臣家と徳川家の関係強化の為に、秀吉の嫡男である当時6歳の秀頼と婚約することとなります。

 

その後、秀吉は亡くなり、関ケ原の戦いを経て家康が、覇権を握ることとなります。

このままでは、徳川家に天下が奪われると懸念した秀頼の生母・淀殿は、秀吉が亡くなる前に成立していた徳川家との婚約を早く履行させます。

慶長8年(1603年)7月、千姫は乳母・刑部卿局とともに大坂城に入り、豊臣秀頼と結婚、千姫が7歳、秀頼は11歳の時でした。この時、千姫は事実上、豊臣家に人質に取られたとも言えます。

 

千姫の大阪城での生活は、秀頼との仲は良かったようですが、千姫は別の御殿を与えられ完全別居、儀式のとき顔を合わせるのみであったようです。

これは、淀殿が、大阪城の情勢を千姫の祖父である家康に知られたくなかった為であると言われています。

千姫は、豊臣側にとっては人質であり、徳川側にとってはスパイの役割が与えられていたからです。

 

生母 お江の方は娘がきちんと育つような頼りになる人材をつけたのでしょう。

千姫の側には、お江の方の異母妹でもある乳母の刑部卿の局や、松阪の局(おちょぼ)という、同じ年の小姓もいました。彼女たちには、千姫を守る役目もあり、スパイの役目もあり、かなり有能な女性たちに囲まれていたそうです。

その甲斐があって、千姫は、わがままな女性ではなく、まっすぐで大らかな女性に育っていきました。

 

しかし、この平穏な日々は長く続くことはありませんでした。

慶長10年(1605年)、家康は、徳川秀忠に征夷大将軍を譲り、権力が徳川家で世襲されることを示します。

これにより、秀頼の政権への復帰を願っていた豊臣家と権力を継承しつづける徳川家の関係は一気に悪化します。

 

その上に、1611年に浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正、1613年に池田輝政・浅野幸長、1614年に前田利長と、恩顧の大名が相次いで亡くなり世代交代が進み、豊臣家の存亡が危うくなります。

家康は、これを受けて「機が熟した」と判断し、世の安寧の為に豊臣家を滅ぼすことを決意します。

かくして、徳川家と豊臣家が直接武力で対決する「大坂の陣」が勃発します。

 

大坂の陣 燃え盛る大阪城からの脱出

淀殿と秀頼を武力で討ち取ることを決めた家康でしたが、やはり一番気がかりだったのが、千姫の存在でした。

 

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が、勃発します。

この時に、千姫に憚って、生後すぐに他家に出されていた秀頼と側室との子達、国松と奈阿姫が、淀殿の妹である常高院(お初)の計らいにより、初めて秀頼と千姫に対面します。

 

豊臣側は、大阪城で籠城し善戦しますが、家康が外国より購入した長射程の砲弾を昼夜なく大阪城へ放ち、心理的に揺さぶりをかけます。

不運にも、その内の一発が、淀殿が籠る天守閣の部屋へ直撃し、淀殿の侍女7名が死亡します。これにより、淀殿は戦意を喪失して、妹の常高院(お初)を交渉役に選び徳川側と講和します。

 

講和条約により、大坂城は、内外堀を埋められ、本丸を除いて2の丸、3の丸は壊され、裸城となってしまいます。

 

一時は、平和が戻りますが、豊臣勢の不穏な動きが見られるようになると、家康は、秀頼の移封及び淀殿が江戸に住むことを要求します。

 

しかし、淀殿はこの要求を拒否したことにより、大坂夏の陣が勃発します。

裸城となった大坂城は、直ぐに徳川軍に包囲されます。そして、本丸への侵攻が始まります。最終的には、豊臣家臣の裏切りにより大坂城は炎上し、1615年5月7日深夜、大阪城が炎上する中、千姫は豊臣秀頼や淀殿らと自刃することも覚悟します。

 

しかし、千姫は、大野治長の一存により、淀殿と秀頼の助命嘆願を徳川側にするように依頼され、大坂城を離れます。

千姫は、僅かな希望を胸に、侍女・松坂の局や堀内氏久らと共に大坂城本丸を出ます。

 

一方、孫娘を不憫に想う家康が何とか千姫を助けたいと

 

「千姫を救い出した者には千姫を妻として与える」

 

と言ったといわれます。実際に言った内容には諸説ありますが、概ねそのようなことを言ったようです。愛しい孫である千姫を思っての言葉でしたが、この不用意な一言が、後に大きな騒動を引き起こしてしまいます。

 

千姫が、夫である秀頼と淀殿の助命嘆願の為に、城内の混乱の中、城外に向け千姫一行が進んでいたところで、坂崎出羽守直盛の軍勢と遭遇し、着物に付けた葵の紋により千姫であることが確認されると城外まで無事連れだされ、千姫は祖父である家康の元に届けられます。

 

家康は、千姫が生きていたことに喜びますが、千姫の助命嘆願の件は父に話すようにと言い、千姫は父・徳川秀忠の陣へ赴きます。

しかし、「なぜ秀頼と共に自害しなかったのか」と父から冷たくされ、淀殿や豊臣秀頼の助命嘆願は叶わなかったそうです。

 

翌日、5月8日に淀殿と豊臣秀頼は自害し、豊臣家が滅亡します。

 

かくして、母親のお江と同様に、娘の千姫も大阪落城を経験することとなります。

千姫は、落城を経験したことや秀頼を失ったことなどにより、失意と心労の為に床に伏しますが、そんな中、大坂城から逃れ京に潜伏していた秀頼の子達である国松と奈阿姫が、京極忠高に捕縛されたと知らされます。

 

その知らせを聞いて千姫は、再び二人の助命嘆願をしますが、国松は5月23日に田中六郎左衛門、長宗我部盛親と共に六条河原で斬首となります。

 

しかし、千姫は、奈阿姫だけは助けたいと再度嘆願をします。

そして、お初(常高院)の口添えもあり、7歳の奈阿姫は、千姫の養女となって寺に入ることで命を助けられ、鎌倉の東慶寺に入り仏門に帰依して天秀尼と名乗ることとなります。

 

東慶寺は縁切寺法をもつ縁切寺(駆込寺)として有名ですが、江戸時代に幕府から縁切寺法を認められていたのはここ東慶寺と上野国の満徳寺だけであり両方とも千姫所縁の寺であり、千姫の思いやりの精神と共に女性救済活動の一端を見ることができます。

 

因みに、縁切寺法とは、夫側からの離縁状交付(三下り半)を要した江戸時代の離婚制度において、縁切寺は妻側からの離婚請求を受け付けて妻を保護し、離婚調停を行う特権を公的に認められた制度を言います。

 

離婚調停(調停期間中は東慶寺の場合、門前の宿場に泊まる)が破綻した場合の最終手段としては、建前として、妻は仏門に帰依します。

しかし、寺の務めはするが尼僧になるわけではなかったそうです。形ばかり、髪を少し切るだけであり、寺の仕事(出身階層や負担金などで仕事は異なる)を足掛3年(満2年)務めた後に晴れて離婚が成立して自由になることができたそうです。

 

この調停特権は幕府によって担保されており、当事者が召喚や調停に応じない場合は、寺社奉行などにより応じることを強制されたと言われています。この縁切寺の調停管轄は日本全国に及び、どこの領民であっても調停権限に服するものと定められていました。

 

この縁切寺である東慶寺を題材として制作された映画に、2015年制作の「駆込み女と駆出し男」があり、この映画の中に、この縁切寺法が詳しく描かれています。

 

 

この「駆込み女と駆出し男」は、U-NEXTで見ることができます。

主演の大泉洋が苦手な人でも楽しめるいい映画となっています。

 

千姫の再婚と坂崎直盛事件

家康は、心労により床に伏している千姫を不憫に思い、そして、その様な状況に追い込んだことに引け目を感じたのか、千姫が幸福に暮らせるようにその再婚先を一生懸命探します。

 

当初は、公家との縁談を考えていたそうですが、千姫はこれを断ります。

そこで、家康が白羽の矢を立てたのが、本多忠刻でした。

 

この本多忠刻ですが、徳川四天王最強の武将である本多忠勝を祖父にもち、家康の長男で切腹した松平信康と織田信長の娘 徳姫との娘である熊姫(妙高院)が、本多忠刻の母であり、千姫同様に生まれついてのサラブレッド。

かつ、織田家の血を受け継いでいる為か忠刻も美男子だったことから、美男美女のカップルともてはやされて、二人の婚姻はとんとん拍子に進んでいきます。

 

しかし、家康は、二人の婚姻を見ることなく元和2年4月に亡くなります。

これが、さらに事態を悪化させます。

 

この婚姻に面白く思っていなかったのが、千姫を大阪城から連れ出した坂崎出羽守直盛でした。

 

坂崎出羽守直盛は、千姫を連れ出したのちに、家康に頼まれて、宇喜多秀家の従兄弟という家柄の良い直盛に京の公家への再嫁の斡旋を依頼し嫁ぎ先が決まったにもかかわらず、その上に家康の千姫救出時の約束が反故にされ、その面目を失ったことから千姫が本多家に嫁ぐことを快く思わなかったのでしょう。

 

面目を潰された直盛は、あまりの怒りに千姫の嫁入り行列を襲って連れ去った上で自害しようと計画します。

家臣が諫めようにも直盛は耳を貸さず、お家が改易されることを案じた家臣は、奉行衆である土井利勝らにこの計画を告げます。

 

「直盛の怒りは最もなことであるが・・・」と同情の声もあったようですが、どうすることもできず、直盛の家臣を密かに呼び出し

 

「このままでは坂崎家は取り潰さざるを得ないが、直盛を殺せば他の一族の者に跡目を継がせて存続させる」

 

と約束してしまいます。

坂崎家では重臣一同で密議した結果、直盛を殺して首を幕府に差し出します。

 

しかし、この話を後から聞いた本多正純は、

 

「主君殺しを認めるとは何たることだ」

 

と激怒し、結局、坂崎家は改易となり騒動は闇に葬られます。

 

また、この婚姻に対してはもう一つ課題がありました。

 

千姫は豊臣家から離縁された訳ではなかったので本多家に嫁がせるにあたり、徳川家康は千姫を豊臣家と離縁させるため、形式的に満徳寺へ入れて短期間、尼とさせて豊臣家との縁を絶たせたそうです。その後、侍女が千姫の名代として満徳寺の尼となって生涯を終えています。

この縁により、上記で書いたように東慶寺と同様に、この満徳寺も縁切寺として公に認められることとなったそうです。

 

つかの間の幸せと別れ

千姫は、1616年9月26日千姫(20歳)は桑名城(後の姫路城)に到着し、9月29日に10万石の桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻(21歳)と結婚。

 

1617年7月14日、桑名の本多忠政に姫路藩15万石が与えられ、本多忠刻には千姫の化粧料として播磨10万石が与えられると、本多忠政、本多忠刻と千姫は姫路城に移ります。千姫が姫路城に入る際には、馬500頭と供850人が付き従ったと言われています。

 

姫路城には千姫と本多忠刻専用の武蔵野御殿と、西の丸を整備して化粧櫓が新たに建てられて新居とし、千姫につかの間の幸せが訪れます。

因みに、武蔵野御殿は伏見城から移築したもので、壁やふすまには金箔がはられ、見事な武蔵野のススキが描かれていたため 「武蔵野御殿」と呼ばれたそうです。

 

本多忠刻は、祖父の忠勝同様に剣術を好み、天下無双の兵法者・宮本武蔵を迎えてはその流儀を学ばせていたそうです。

 

祖母の於愛の方ゆずりの慈しみの心を持った千姫は、領民から「播磨姫君」と称されて敬愛され、1618年、22歳の時、初めての子・本多勝姫が誕生します。
本多家の侍女らは千姫のことを「御姫様」、勝姫を「小姫様」呼んで、その誕生を喜んだそうです。

翌年には、長男・幸千代も生まれますが、幸千代は3歳で急逝してしまいます。

 

その後妊娠はしますが、流産を繰り返すようになり、千姫が頼った占いで、豊臣秀頼が恨んで千姫を祟っているとされ、1623年に化粧櫓から望む姫路城近くの男山に千姫天満宮を建立し本多家の繁栄を祈願します。この時に、千姫は豊臣秀頼に許しを請う願文を書いて、観音像の中に入れ奉納したと言われています。

 

悪いことは重なるもので、1626年、参勤交代から帰った夫・本多忠刻が結核で31の若さで病死。亡くなった日付は、奇しくも大坂落が炎上し落城した日と同じ5月7日であり、ここに因縁めいたものが感じられます。

 

別れは更に続いていき、1626年8月には姑・熊姫(妙高院)、そして、9月15日には母・お江(崇源院)と次々に没し、播磨10万石の化粧領も本多忠刻の弟・本多政朝が継いだため、弟である徳川家光の勧めもあって30歳の千姫は11月に勝姫を連れて江戸へ戻る決心をし、11月に姫路城主・本多忠政らに見送くられて江戸城・西ノ丸に入ります

千姫が江戸に戻る際は、多くの家臣や城下の人々が彼女との別れを惜しんだと言われています。

 

その後も縁談の話はあったのですが、これを断り、賄料10000石を得て、弘経寺の住職・照誉了学の教えを受け落飾すると、天樹院と号して二人の夫の菩提を弔い、竹橋御殿に移って勝姫と共に暮らします。

 

1628年1月26日、11歳の勝姫が鳥取藩主・池田光政(20歳)の元に嫁ぐと、千姫は池田家に嫁いだ1人娘のことを心配し、度々「天樹院書状」を送ったそうです。

 

1632年1月24日、父・徳川秀忠が死去。千姫も最後を見送ったとされる。
1633年、叔母であるお初(常高院)が死去。

 

1644年、懐妊した徳川家光の側室・夏(順性院)が、徳川家光が厄年と言う事で災いを避ける為、家光は姉である千姫をこの子の養母とします。

側室・夏(順性院)は、千姫と一緒に暮らすすようになり、竹橋御殿にて徳川家光の3男・徳川綱重(甲府宰相)が生れています。

 

1645年2月7日、東慶寺の天秀尼(奈阿姫)が37歳で死去。

天秀尼(奈阿姫)が、東慶寺に入るときに、気を紛らわすためと「唐糸草紙」を授けますが、これが遺品となり手元に戻ります。

千姫は、天秀尼(奈阿姫)を思い出すためか、何度もこの本を手に取って読んだ後が残っており、千姫のやさしさが垣間見れます。

 

また、1654年7月、勝姫が嫁いだ岡山で大洪水が発生して、大飢饉もあり餓死者は3000人以上となります。
この時に、千姫は見舞金として4万両を送ったとされますが、現在の価値で40億円もの大金を所有しているはずはなく、江戸幕府に働きかけて資金を得たとされ、20万人の命を救ったと言われています。

 

その後は、千姫は江戸で平穏な余生を過ごし4代将軍家綱の代まで生きていますが、晩年は将軍親族の長老的立場となり、大阪の陣から51年後の寛文6年(1666)に70歳で亡くなります。千姫の血は勝姫を通じて池田家に続き、その子孫からは江戸幕府最後の将軍である15代将軍徳川慶喜も出ています。

 

千姫の母のお江や淀殿が戦国の世にその運命を翻弄されたように、千姫にも戦いがついて回りましたが、彼女の心の優しさが、家康を初め代々の将軍に愛され、後の世を静かに生き抜くこととなりました。

 

今回も、長々と書いてしまいましたが、最後までご清読ありがとうございます。

「どうする家康」でこの千姫が登場したら、千姫にはこのような数奇な運命があるのだと思い出してもらえれば幸いです。