映画ドラマの裏側 なぜ日本映画は衰退したのか その3 | meaw222のブログ

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今日は、「なぜ日本映画は衰退したのか」その3を書きたいと思います。

 

日本映画の衰退の始まり

 

下のグラフは、映画の観客動員数の推移ですが、1958年の11億2千万人をピークに1970年にかけて急速に低下しています。

この急速な低下は、テレビの普及により娯楽が映画からテレビへと移っていった為だと言われています。

 

 

特に、1959年4月の上皇さまのご結婚を期に、白黒テレビが普及し、この年に200万台を超えています。

 

 

1960年には、アメリカ、キューバに次いで3番目のカラー放送が開始されます。

1963年には、日本最初の衛星中継が行われますが、それはケネディ大統領の暗殺を伝える報道となります。

 

1964年10月には、東京オリンピックが開催され、世界初の全世界へむけての中継が行われ、日本中がテレビにくぎ付けになります。

 

 

1969年には、アポロ11号の月面着陸が同時中継され、世界で6億人もの人が、この瞬間を共有します。

 

 

 

1970年代に、日本初の万国博覧会が開催され全ての家庭にカラーテレビが普及し、娯楽の中心が、映画からテレビへとパラダイムシフトします。

 

下のグラフは、映画館のスクリーンの数の変化ですが、観客動員数に2年遅れて、スクリーン数が減少していることが、分かると思います。

全盛期には、7千か所ありましたが、1993年には、1千7百か所、現在では、少し増えて

3千6百か所になりますが、それでも全盛期の半分しかなっていません。

2000年以降、スクリーンの数が増えたのは、通常の映画館からシネコンプレックス形式の映画館へと推移したためです。

現在では、映画館の約九割が、このシネコンプレックス形式の映画館となっています。

 

 

映画館へ映画を見に行く人が減ると、興行収入が減り、採算が取れない映画館が潰れ、スクリーンの数が、減っていきます。

アメリカでも同様の流れが起きますが、ハリウッドは作品を多く製作することで、リスクを減らそうとしますが、日本はその逆の方法を行い、結果的にリスクばかりが高まってきます。

 

また、映画館では利益の減少を、入場料へと転化するようになり、更に、観客が減るといった負の連鎖が続きます。(実際、日本の映画館の入場料は世界的にも高く、お隣の韓国の約2倍の料金となっています。)

そして、いつしか、 映画館には一部のファンしか足を運ばなくなっていきます。

 

最終的には、それが映画産業への投資減少につながり、映画の規模が段々と減少していきます。

1960年代までは、独自の撮影所を所有していた東宝、松竹、日活、大映に加え、急速な発展を見せた東映が主体となって、映画の量産体制を牽引していました。

 

しかし、投資減少により、多額の維持費を必要とする撮影所を各社共に抱える余裕がなくなり、売却又は廃棄するようになります。

大手映画会社は、配給のみを行い、映画製作には、独立プロダクションを使うようになります。これにより、日本映画の量的な減少傾向をひき起こします。

 

また、映画製作費においても、減少を続け、現在では、ハリウッド映画と比べると一桁違うほどの低予算で制作されており、映画の質の低下につながっています。

 

そして、これにより、日本映画製作の最大の問題である、「製作委員会」方式の映画が登場し、本格的な日本映画の劣化への道を辿るようになります。

 

「製作委員会」方式にについては、次の機会に書きたいと思います。

 

※グラフ等の数値は、一般社団法人日本映画製作者連盟の過去データの一覧を用いています。