その2は、「お市の方」の3人の娘のその後について書きます。
戦国時代において、茶々、お初、お江の3人の娘たち程、時の権力によりその運命を大きく変えられた者はいませんでした。
三姉妹のその後
三姉妹は、一度は豊臣秀吉の庇護下に置かれますが、長女の「茶々」は、父母の仇である秀吉の側室に、次女の「お初」は、実父の浅井長政の主筋である京極高次の正室、三女の「お江」は、秀吉により2度再婚させられて、最後は徳川家康の嫡男徳川秀忠の正室として嫁ぎます。
「茶々」は、「淀殿」と呼ばれるようになり豊臣家跡継ぎの「秀頼」を生んで大阪城に居城します。
「お初」は、京極高次との子が出来ずに三女「お江」の子を養子として迎えます。
「お江」は、第3代将軍家光を初め、2男5女を生みます。末娘の徳川和子は、後水尾天皇女御として入内(後に中宮)し、第109代明正天皇の母となります。
「関ヶ原の戦い」と「大坂の陣」
豊臣秀吉の死後、豊臣家世継ぎである「秀頼」は、年少であったために「淀殿」が政治を司りますが、徳川家康と石田三成との間に、内部紛争が勃発し、徳川の東軍と石田の西軍が、関ケ原で激突します。
結果、東軍が勝利して西軍に加担した石田三成を初め豊臣家の有力な武将を粛清します。
更に、「徳川家」と「豊臣家」の存続をかけた戦いが、始まります。
豊臣秀頼が、徳川家康の家臣になることを要求、それを「淀殿」が拒絶したことから「大阪冬の陣」が、勃発します。
当初、家康は、大阪城への力攻めを行いますが、「真田十勇士」で有名な真田幸村により大打撃を受けます。
これにより、家康は、大阪城を包囲し、夜昼となく大阪城へ砲弾を撃ち込み、「淀殿」を精神的に追い詰めます。
運の悪い事に、その内の一発が天守閣に命中して、侍女8人が死亡します。
これにより、「淀殿」は、講和をすることとなります。
この時に、豊臣側の使者として次女の「お初」(この時には、夫が死亡しており、仏門に帰依しており「常高院」と名乗っていました。)が勤めており、この「常高院」の働きにより、二の丸、三の丸の破壊、大阪城の堀を埋めることを条件に講和が成立します。
しかし、家康は、翌年、「豊臣家」の息の根を止めるために、再び、「淀殿」がのむことのできない条件を提示し、これを「淀殿」が拒絶する事により、「大阪夏の陣」が、勃発します。
堀を埋められた大阪城は、「裸城」であり、前回の様な籠城戦はできず、野戦となりますが、多勢に無勢で劣勢が続きます。
最後は、家臣の裏切りにより大阪城に火がつけられて落城します。
大阪城の炎は、京都からも見えたほどであると言われています。
この大阪城の炎上時には、長女の「淀殿」、侍女の「常高院」そして、三女の「お江」が近くにいたと言われており、2度の落城(近江の国小谷城、越前の国北の庄城)を経験したこの三姉妹は、どの様な気持ちでこの情景を見ていたかと考えると、戦国の時代とは言え、過酷な運命に胸が痛みます。
最後に、「淀殿」と「秀頼」は、大阪城内の山里丸の櫓にて自害します。この時に山里丸の櫓に火がつけられ、「本能寺の変」の「織田信長」と同様に、「淀殿」と「秀頼」の遺体は、発見されていません。(1980年に、「秀頼」の頭蓋骨ではと言われるものが発見されますが、比較資料が無い為に不明のままです。)
映画「茶々 天涯の貴妃(おんな)」の抜粋
この後、徳川の時代となり、次女の「常高院」と第2代将軍徳川秀忠の正室である三女の「お江」は、度々、会っていたそうです。
二人が会った時に、長女の「茶々」のことを懐かしんで、話し合っていたのではと考えると、少し救われた気がします。
この三姉妹を描いた映画に、「茶々 天涯の貴妃(おんな)」(2007年)があります。
この映画は、原作が、有名な歴史作家である井上靖であり、当時としては、破格の10億円をかけて制作されています。(その内、1000万円が衣装代だそうです。)
関心のある方は、見て下さい。