※6年前ほど前?46巻刊行記念記事です!
mixiという媒体に「友人限定公開」で載せたものなので、
タメ口や関西弁他、言葉遣いが乱れておりますが、原文のまま掲載いたします。
何卒ご容赦くださいませ…(ノ_・。)

****以下、mixiより転載**************************

さて亜弓さん。これは超長いよ。一本の感想文ですよ。

すばらしいね、もう。

初めはマヤ=努力(でこれから)
亜弓=天才(できあがってる人)
だったガラスの仮面。

マヤは「天性の才能がある」とは言われつつ
それでも、最近ほどまで天才じゃなかった。

というか、技術の拙さが目立って、
圧倒的に亜弓を追いかける描写が多かった。
演技の「天才」の部分も、
「他のことはできひんのに、
これだけはセリフをあっちゅー間に覚えられる」
とか「ひたむきで何か目をひく」とか。

荒削り、かつ、片鱗が見える程度(の才能……それは
読者に対してもまだ不確定不安定。大成するかなんてわからない)

けども、いつからか亜弓をして
「ママはわかってるんでしょう?
あの子が天才だってこと……略……
いつ壊れるかわからない
そんなガラスの仮面をつけているのは私のほうよ」
と言わしめる存在になり
(亜弓さん、生い立ち編、セリフはあいまい)

最近はもっぱら、亜弓さんがいかにマヤに追いつくかで
マヤのほうは、そこまで亜弓に追いつけ追い越せ、
でもなくなったという。

(たまに、ちょっと「やっぱりかなわない…」てあるけど
とってつけた…とまではいかずとも
昔ほど切実に思えないんだよね。読者には危機感がないというか。
だって、たけくらべのときは、読者もハラハラしんかった?
ほんまに追いつくの?て)

正直演技の「才能」に関しては上述のような状態ではもはやなく
不動の安定感があり圧倒される。(読者も)

亜弓さんという人物は、基本的に行動動機が家族関係に根ざしていて
「努力してマヤに勝ちたい」というのも
結局は、家族に端を発していると思うのです。

彼女のアイディンティティ、「自分」の獲得

有名女優の美人母と有名映画監督の父(しかも両方才能ある)から
演技の才と美貌、お金、快適な住環境・演劇環境を持ちつつも

それらはすべて「与えられたもの」で、
誰も本当の「自分」をみてくれない。

親の七光りで「私」は輝いているのではなく
「自分の光で」輝きたい、
自分の手でつかんだもの=努力
それで「天才」=与えられたもの=マヤに勝たないと
自分が自分でなくなってしまう……
結局「与えられたもの」を越えられない、七光りから抜け出せない…
なんて切ないの……。

私の少女マンガ観を変えた決定的名著・バイブル
「私の居場所はどこにあるの」
に、少女マンガとはつまり、
少女(読者・ヒロイン)が「自分の居場所」を探す物語だ、
とありました。

「私(みそっかすな私だけど…)はここに居ていいの?」

それを、たとえば恋人からの肯定(=両想い)や
家族からの肯定に見出すことだ…とね。

「みそっかすな私」……それはまさにマヤだったはずなのに
いまやすっかり亜弓さんも、自分の居場所を探す我らのヒロイン、
少女マンガのヒロインなのです。

(少女ちゃうやん!てツッコミはご勘弁を。
年齢というより「完成されていない人間」みたいな感じでお願いします)

マヤは、速水さんにも結局認められ演技も認められ
そんなに切羽詰まって居場所探ししてないんだよねw
(読者…私には)

「ガラスの仮面」というタイトルだって、

連載開始初期で、月影先生が「千の仮面を持つ少女」と言ったり
(家出したマヤをおっかけて母親がやってきた修羅場)

麗がマヤに「役者はガラスの仮面をかぶっている」と言ったり
(石の微笑で、マヤが人形の役中に泣いちゃったシーン)

もっぱらマヤのための言葉だったのに、

生い立ち編で、亜弓も実は居場所を求めていることが明かされ
「ガラスの仮面」をかぶった人間だと定義されることで
初めて、亜弓さんが、この少女漫画のヒロインになったのだと
勝手に解釈しておる私なのです…。