「全ては自分の為である。」

と言い切ってしまうと、

ひょっとしたら居心地が悪い感じを覚えるかもしれない。

 

ただ、説明しておきたいのは、

これは自己中心的に考えて行動する、ということではなく、

「自分で考え、自分で行ったことに、自分で責任を持つ。」

ということが言いたいための言葉である。

 

ようするに、

悩むな。押し付けるな。期待するな。逃げるな。誤魔化すな。

といった意味を含む。

 

なので、「すべて自分の為。」と思うことと、

利他的な行動をとることは矛盾しない。

 

例えば、満員電車でご老人が目の前に立ったので、

立ち上がって席を譲ろうとしたら、

「年寄り扱いするな馬鹿もん!!」

と怒鳴られたケースを想定しよう。

A、B、Cさんのケースをそれぞれ考える。

 

Aさんは、老人を目の前にして座ってたら周りの人に悪く思われるだろうと考え譲った。

そしたら怒鳴られた。

Aさんは仕方なく座ったが、気分は悪いけどこれで席を譲らなくてもいい理由ができた、と思った。でも、もしまた次に同じ状況で同じように言われたらいやだなぁと思った。

 

Bさんは、幼いころから老人に席を譲ることを躾けられ、

それが正しいことだと思っていたから譲った。

そしたら怒鳴られた。

Bさんは、なんて失礼な老人だろうと思いその場で座るのも悔しかったので車両を変えた。

 

Cさんは、老人に席譲る俺カッケ―!というポリシーの持ち主だったので席を譲った。

そしたら怒鳴られた。

Cさんは、他人のポリシーを尊重する俺カッケ―!というポリシーの持ち主でもあったので、

「すみませんでした!じーさんカッケ―っすね!!」と返した。

老人はニヤリと笑った。車内からはクスクスという笑い声が聞こえた。

 

Aさんも、Bさんも、Cさんも間違ったことはしていない。

あえて間違いを指摘するなら、AさんやBさんのように、

断られた時嫌な思いをしそうなことがわかっている場合は

そもそも席に座らなければよかったんだろうけど。

 

けど、それぞれのケースの後味はだいぶ違うはずである。

AさんとBさんのケースは、当人はもちろん老人や周囲の乗客も

その場の空気の悪さを感じたはずだ。

Cさんのケースでは、老人のプライドはおろか車内の空気まで守っている。

でも当人は別に老人や乗客を気遣ったわけでもない。

 

多分Cさんは、たとえ老人が機嫌を直さずにムスッとしたままでも、

他の乗客が車内を騒がせた自分や老人に非難のまなざしを向けても気にしないだろう。

俺カッケ―!としか思わないはずであるし、

このことは「思い通りにならなかった事」ではなく「思う通りに行動した事」としか認識されない。

 

Cさんという人物像はとても極端だ。

20年30年生きていてここまで擦れていない人間がいたら見てみたい。

でも、見習うところがあると思ってもらえたら幸いである。

ヒントは、AさんやBさんが、自分の管理外にある老人に何らかの期待をしていたのに対し、Cさんは何の期待もしていなかったところにある。

Cさんは自分の為に席を譲り、自分の為に老人の主張を認めたのである。

考え方ひとつで、心は驚くほどに傷つかなくなる。

 

自分の人生を、

「全ては自分の為である。」

と言い切って行動すると、相手に余計な期待を抱かないで済む。

期待をしないということは、裏切られないということだ。

親切や思いやりや気遣いは、相手に感謝されたり良く思われたりしたいから

するのではなく、「自分がしたいからする。」と考えられれば気持ちよく良い人になれる。

相手のために何かを「した」段階ですでに完結しているからその後のことは気にならない。

逆に、したいと思えないことは例えそれが善行でもしない。

まず自分の意思でしたいことをする。

したくないことは、自分の為と思えることだけする。

 

そう割り切ってしまえば、考えることはだいぶ絞られる。

それは「したい」ことか「したくない」ことか。

「したくないけど自分の為になる」ことか。

 

もし人生で迷ってしまい、どう考えたらよいかすらもわからなくなったら、

「すべては自分の為である。」とまず言い切ってみてはどうか。

自分の意思で考え、行動し、責任を取る覚悟を決める。

それからゆっくりと

「したいこと」「したくないこと」「したくないけど自分の為になること」

について考えてみると頭が整理されるかもしれない。