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桃土器

土やき作品と俳句、日々メモ

今日は午前・午後の部で2つの句会をかけもち。

どちらも月1回の句会だけど、日が重なることが多い。

 

午前は知り合い同志のざっくばらんな句会で、午後は自分が所属してる結社の句会。

朝の句会で出句したもの(点が入ったもの)を

午後の句会に出句するのが最近のパターン。

 

結社に所属してからというもの、コンスタントに句をつくるようになった。

前までは、「一人で自由にやればいいか~」なんて思ってたけど、できなかった。。

土やきも仲間とやってて、集まる日が決まってて、

ちょっと面倒くさい日も、とりあえず行くかという気持ちになり、そのおかげで続いてる。

 

俳句もおんなじでした。

 

あと、結社の句会では先生の講評が聞ける。

好き勝手に俳句やってた自分にとっては、先生の講評は地に足のついてる揺らぎないものだ。

説得力があるし、客観的に自分の俳句を眺めるきっかけをたくさんくれる。

 

今日は「人間探求派」の話。草田男、楸邨、波郷の名前があがる。

「万緑(ばんりょく)」や「寒雷(かんらい)」などの季語はこの人たちの力ある俳句から生まれた。

その辺は特にまあ、あまり関心がないけども、先生が挙げた石田波郷の句

 

「霜の墓抱き起されしとき見たり」はかんがえさせられるものがあった。

「抱き起されし」の主語は霜の墓なのか、それとも波郷自身なのか、どちらともとれる句だ。

波郷自身だという説が有力のようだけど、霜の墓が抱き起されて、それをただ目にしたという

淡泊な解釈もいい。

先生もどちらでもオモシロイねみたいなことをいっていて、私もそう思う。

 

それはやっぱり「霜の墓」の力だと思う。

さいきんむさぼるように田川飛旅子を読んでいるけど、

具体(モノ)の力というのはやっぱりすごいんだなと思う。

田川飛旅子は徹底的に「モノ俳句」の人だった。

 

モノに纏わるイメージ、色、触感を活かすことができれば、「喜怒哀楽」にとどまらない

微妙な感覚を表現できる。

 

波郷の句、「墓石」の抱き起されしとき見たり とかだったら、気の抜けた炭酸みたいな句になる。

「霜の」墓と「墓石」の違いは明らか。

 

最近の気づき。

 

家に帰り、邑書林の「石田波郷句集 鶴の眼」ひっぱりだした。

最後に飛旅子の句を。

 

春の正午少女の咽をパンとおる 飛旅子