ペトログリフから読み解く

日本を目指して入って来た人達を


ペトログリフ(ペトログラフ)研究の

武内一忠先生の考察を

配信させて頂いています。


第1陣 シュメール、ケルト、フェニキアの一団、

第2陣   モーセの一団、

第3陣 ソロモンの一団、


の後に日本にやって来た

第4陣、第5陣の配信です。


YouTubeで

見てもらう方が

わかりやすいと思います。



……………………………


さらに

ソロモンの一団の次に

日本に訪れたのが

第4陣です。


この勢力が

イスラエルの失われた10氏族となります。


これまた

ユダヤに繋がる

イスラエルの民が

日本にやって来たという話に

なります。



2700年前

イスラエルの王

ソロモンの子孫達は


北朝の10氏族

南朝の2氏族

に分かれました。


旧約聖書に

何故そうなったのかが

原因が記されている。


ソロモン王が

神との約束を守らずに


他国の神々を認めて

別の宗教の神像を

奉納させた事がきっかけだった

言われています。


偶像崇拝になるからです。

偶像崇拝は駄目だからです。 





ただ、この頃の時代は

多神教でも良いよ派の

北朝10支族と 


唯一神しか認めない派の

南朝2支族に

分断してしまった。


こうして

南北で対立して

バチバチしている最中


北朝の10支族が

大国アッシリアに

攻め滅ぼされて


残った人々は捕囚として

連れ去られて

歴史から姿を消してしまった。




このイスラエルの人達が

どこに行ったか

わからないから


失われた10支族と言われていて

今でも調査されている。


この時の出来事を


旧約聖書では

「ダガーマ州のハランの町から

 10支族が消えた」

と表現している。




日本神話に出てくる

天界「高天原」と

ほぼ同じワードだと。


「ダガーマ州 ハラン」だから。


高天原(タカマガハラ)


10支族が

高天原からやって来たとすると

日本神話にも筋が通る。



この時に

北朝10支族が

日本に来ていたとしたら


天の世界 高天原から

天孫ニニギが降臨したという

エピソードは紐解けて


ダガーマ州ハランから

日本にやって来た

北朝10支族の物語になるんじゃないかと


武内先生は考察されている。




天孫ニニギの後に

沢山従者がついて来ているから

大人数の移動ともいえる。


この北朝10支族は

日本までの航海を


また

フェニキアとケルトのコンビの

海洋民族に依頼して

「タカマガハラ」から

日本に天孫降臨した。




ここからは

北朝10支族を

武内先生の考察にならい


「天孫族」といっていきます。

元イスラエルの人達です。


「天孫族」というのは

北朝10時支族だったから

多神教でもあるし


ケルトとフェニキアもまた

多神教的な民族であったから


日本に上陸しながらも

現地の宗教を受け入れながら

対立する事なく

同化していって


その上で

勢力が広がっていったと




武内先生曰く

記紀には記さられない

ウガヤフキアエズ王朝というのは


この時の

天孫族が興した王朝だと

仰っているんですね。


ウガヤフキアエズというのは

記紀においては

神武天皇のお父さん


しかし

竹内文書や

ウエツフミ

富士宮下文書といった

古史古伝によると


神武天皇以前の王朝とされている


いわば、

ウガヤフキアエズ王朝の系譜

=失われし10支族の系譜

となるわけです。




何代も続いていたのは

日本以外の時代から

カウントしていたのではないかと。


天孫族というのは

元々

失われた10支族の民であり


フェニキアとケルトの民と共に

来ていました。


ウガヤ」「フキアエズ」というのは


それぞれ

ユダヤ」「フキアニキア」が

転訛したもので


この時に

日本にやって来た10支族の人々が


「ウガヤフキアエズ王朝」

を興したと

武内先生は考えているみたいです。 




この

「ウガヤフキアエズ王朝」というのは


先住の

ケルトの民とか

フェニキアの民とか


古代から住んでいた

縄文人達とも

対立する事なかった。


交わって

広げていった。


この時点で

何回日本に来ているの?と

話になる。


4陣来ている。


この頃の九州地方で

鉄器を扱うケルト


シュメールを

立ち上げたラピュタの末裔

マガン族が

現地の縄文人と同化していって


最強の集団

「熊襲」という勢力となっていったと。




「熊襲」の人達は

「天孫族」の人達からすると

先住民の先輩みたいな感じで


「熊襲」からの後押しを受けた

「ウガヤフキアエズ王朝」の末裔

イワレヒコが





ヤハウェに近い音を残す

矢部町の男成神社で

元服の儀を行うと


この「熊襲」の子孫が

「隼人」になっていくらしいのですが、


「隼人」も

神武天皇のボディーガードとして

東征にも付き従い


皇居の近くに

居を構えていたと

記紀に記されている。


隼人のマーク

こちらなんですけど、


この渦巻模様は

ケルトの紋章です。




 アイルランドのニューグレンジの巨石



これが

同じルーツで

繋がっていると考えると


同じ様なシンボルを

持っているのにも

納得がいくわけです。


「隼人」の祖でもある「熊襲」

ケルトの血を受け継いでいるので


戦士としての素養も高くて

鉄器も使えたと。


だから

日本で最強の集団となっていったから


隼人=ケルトの末裔と

いえるわけですよ。




こうして

ウガヤ朝は


最強の武力を持つ

ケルトの末裔、熊襲

従えながら

勢力を拡大して来ました。


そんな中、

またまた

日本にやって来る一団がありました。


5度目


この一団が

これまでの多神教的な

日本の流れを

大きく変えてしまう。


天孫族が日本に来てから

100年近く経った

今から2600年前頃


2600年前頃といえば

神武天皇が即位して

日本ができたと言われている時代。


この時代に

唯一神重視派だった


イスラエルの

南朝2支族の方が


新バビロニア王国に連れ去られて

70年もの間、

捕虜にされてしまう。




しかし

新バビロニアが

古ペルシャに滅ぼされて


捕虜にされていた

南朝2支族は

古ペルシャの人達に

助けられるんですよ。


そこから

イスラエルの民は

数十年ぶりに

エルサレムへの帰還を果たすんですけど、


そこには

今でいうパレスチナ人、

ペリシテ人が住み着いていた。


そこから 

イスラエルの民 VS  ペリシテ人

居住地をめぐる争いが始まった。




ここまでが

旧約聖書の記述通りの

流れなんですけど


武内先生は

次の様に推理している。


①古ペルシャの

 ダリウス王は

 南朝2支族の民を

 引き連れて

 首都スサへと引き返す。


②しかし

 南朝2支族の住まう場所が

 見つからなかったため

 ダリウス王は

 彼らを日本に逃した。


③スサの王・ダリウスに

 引き連れられた

 唯一神信仰の南朝2支族が

 第5時陣として

 日本へと上陸した。 





そして、

このスサの王が、


記紀では

スサノオノミコト

となっていったというのが

武内先生の考察なんですね。




今回は
あくまで
武内先生がペトログリフから
読み解いた世界史、日本史を
紹介するという回なので、

ペルシャ帝国と、
古代日本の関係については
深掘りしませんけども

ペルシャの都
スサの王=スサノオ
という仮説は
割と有名な説ではあるのです。

実際に
古代日本には
ペルシャ人が
大量に住み、

役職を与えられたり、
文化的な影響を与えた事が
わかっているので、

全くあり得ない話では
なさそうなんですね。


もともとの日本には
国という概念は
存在しなかったといいます。

古代の日本には
森や水が豊富な場所で

海洋民族と縄文人が
共に集落を形成し
自然の神々を崇拝して
祭祀をするという

そういう文化が
存在していた様です。


そんな古代の日本に
これだけシュメール王朝文化を
受け継いだ人達が
続々と入って来た事で

何段階も
何百年かけて
5段階くらい

こういう人達が
入ってきたから
王族だったりするから

だから
徐々に国が出来ていったのでは
ないかというのが、

武内先生の考える
世界の歴史になるわけです。

続く。。


ペトログリフ(ペトログラフ)から読み解く

日本の歴史。

東の日の出ずる国を日本を目指した人達