千賀一生さんの書籍を引用して

配信させて頂いています。


千賀さんは

中国雲南省の山奥の村で

思いがけない人物と出会った。


老子の子孫と言い伝えがあるM老人は、 

秘教書である、老子書に

書かれている 古代の叡智を守 っていた人でした。


彼との出会いは、

自分の人生上の視野を、


それまでの何百倍に拡大させるほどの

衝撃をもたらすものだったと。


 

以下引用


・・・・・・


村の人たちは時折、

先にふれた

精霊との交信以外にも、


日本では見たことのない

こうした

体操のような、

祈りのような事をしていた。


例えば、

上方に手を挙げ、

手の平を天に向けたまま

何分も静止していたりとか、


まるで瞑想にふけっているかのような場面を

とくに早朝の日の出の頃に

よく見かけた。


私の第一印象では

私たちとは

まったく次元の違う祈りとも思えた。



後に、

村の人から

これを「ヤーマ」と言うのだと聞いた。


静かな動きや静止するものが多いが、

激しい動きのものもある。


ヤーマは

本質的に精霊としての

自分自身を活性化させる行為を

意味するのだそうだ。


精霊としての

自分自身とは、

性エネルギーを意味することになるという。


ヤーマはヨガにも似ている。







日本人から見たら

妙な光景に思われるだろうが、


性行為とともに

ヤーマを行う光景や

男女が組になってヤーマを行う場面を

何度か見たことがある。


そこで見た

20 歳前後の男女のヤーマとの出会いは、


私のそれまでのセックス観を

まったく崩壊させてしまうほどの

衝撃を私に与えた。


遠方の景色に気をとられながら

歩いていた

私の視界に突然飛び込んできたのは、


仰向けになった男性の上に

全裸で座した女性の姿だった。


多少ドキッとしたが、

彼らの文化を理解し始めていた私は

それほど驚かなかった。


手のひらを天に向けて

上方を見あげながら

ほとんど静止していた。


この祈りのような姿勢の中で、

彼女が深い恍惚状態に入っているのは、

その表情から明らかだった。


その恍惚の祈りの姿は

少しずつ変化し、

両手を下に降ろして

斜め上方を見上げた姿勢となって、


またかなりの静止状態が続いた。


他にと

様々に変化したが、


いずれの形も、

また、形から形へと変化する体の動きも

優雅な舞道のように美しく、


常に女性の側が自身の感覚に意識を向け、


内的なエネルギーに

身を任せて

ゆっくりと

形を変化させているというふうであった。


後光がさすという言葉があるが、

こうした形容は

天使や菩薩など、

人間を超えた存在を示す形容であろうが、 


しかし、

彼女の至福に満ちた目と、

たとえようのない愛とやさしさに

包まれたその顔は、


人間を越えたそうした存在を

思わせるに足るものがあった。


彼女の周囲にただよう

すべてを満たしたような空間に

私はいつのまにか引き込まれていた。



ストレリチアなどの

大型の南国植物を背景に

繰り広げられた


この欲望というのをまったく感じさせない

二人のTaoは、

周囲の自然を巻き込んだ

偉大な芸術行為と言う他はなかった。


あるいはこれは、

宇宙のTaoを自らの体で表した

究極の宗教舞踏と言えるかも知れない。






ともかく

彼女たちは

圧倒的な美しさと尊厳に満ちていた。


私たちの

「あさましい」「恥ずかしい」

欲望のセックスとは

まったく次元を異にする


この芸術行為は、

長時間にわたって続き、

男性が射精したのかどうかもわからないまま

終ったように見えた。


なぜ、

性行為によって、

これほど人間が

神々しく輝くこだろう。


この男女は、

相手の存在を通し、

自然界の叡智である精霊たちと交信し、


彼らの概念では

神に等しい

宇宙に身を任せているのだろう。

 

彼女たちの

この人間を越えたかのような

圧倒的な威光は、


野に輝く花々が

自然界の精霊を体現化した結果であるように、


自然界の英知の輝きを

最高度に体現するかのようであった。


それは、 

人間の表すことのできる

最も深遠なアートであり、


最も謙虚な祈りでもあった。、






私はそれまで

当たり前だと思っていた

文明社会の射精主義のセックス観が、


いかに偏狭なものかを思い知った。


あまりにも

自己中心的な欲望行為を、


それが、セックスなのだと

私たちは思い込んできたのではないだろうか。


ユダヤの聖典にもあるように、


セックスは

その人そのままを表す鏡なのだろう。


彼女たちの姿は、

愛によって

人が神へと高められた姿にさえ

思われた。


太古の人々が

いかに性に向かい合っていたのか、


なぜ彼らにとって

性が神であったかを

見せつけられた思いがした。


これほどまでに

崇高な行為を

隠れて行わなければならない理由は

どこにもない。


彼らか

セックスを隠れて行わないのは当然なのだ! 






そもそも

私たち文明人は、


性行為を子供に見せることを

教育上まずいことだと考えている。


しかしそれは、

私たちのセックスが


そうした次元のセックスであるからでは

ないだろうか。


彼らのセックスへの認識は、

私たちとはまったく正反対だ。


彼らの認識では、

セックスこそが


他の何よりも優先して

子供達に魅せるべき行為であり、


この村の子供たちは、

自身か両親のやましい行為によって


生まれたのだという

むなしさに出会うことはない。


逆に、

大人たちの

この聖なるTaoを見ることによって、


人が神へと向かう

その姿を学ぶのである。。

























老子の「道(Tao)」は

「まぐあい」を表す暗号語だった。










古代の 

「生殖器信仰」「まぐあい」から配信中


古代の生殖器信仰。日本には男性器や女性器を泥る信仰が残っている。

男女の性交「まぐあい」に古代祭肥の精神は象徴されていた。

「まぐあい」は神と繋がる神聖な儀式。戸籍が始まり一夫一婦の法律が施行されたの は明治時代から

長い問、女神達は、「女性性の目覚め」を 封印されていた。

宇宙人は、地球人の「まぐあい」を体験しに来ている。いいね、楽しいね、深い快感 だと感じている。

男性は女神を通して三次元で活躍できる。~アダム徳永さんの著書より~

陰陽和合の「まぐあい」は高次元の神々と つながる神事となる。

「まぐあい」の事は、房中術、道、密教でも、説いているという