誰でも過去の記憶はある。
その「記憶」は残念ながら「記録」ではない。
何故なら、今から見て「過去」を思い出しているからだ。
人は思い出す時に、心の引き出しから、恰も収納の奥にある幼稚園の時に取ったビデオを取り出すような感覚で、記憶を扱うから、記録のような気持ちがするのだろう。
しかし、この記憶は記録の様にいかない。
記録と違い、記憶はどう仕舞ったか、どう再生するかに因って見え方が変わり、自分の過去に対する捉え方や感じ方が大きく変わる。そうすると過去の記憶は変わり、事実上過去も変わる事になる。何故なら、過去とは今から過ぎ去ったと思われる方向を向いて、今から見ている見方(Perspective)でしかないからだ。
だから、「物凄く失敗した」悪い記憶も、実は数年後「それに因って齎された成功」によって良い記憶になる事もある。
酷く憎んでいた人もワークやヒーリング・プロセスで見方が変わると赦せてしまったり、少なくとも相手の見方が分かり、憎しみが消える時もある。
「上手く行った事」より、「失敗」の記憶が後日の良い笑い話になるのは誰にでもある程度経験のある事ではないだろうか。
ブランドン・ベイズはこの過去の記憶および過去生も含む過去の記憶(メモリー)をメタフォー(比喩)みたいなものだと言った。
何故かと言えば、それをもし思い出す事があれば、そこにソウルの何かしらの意図があるからで、その記憶の正確性や、今生でない記憶であれば事実だったかどうかは二の次だそうだ。そこにどんな学びがあるかの方が。
確かに、ワークなどの途中でそれに気が付いたとすればそこに自分のソウルもしくはハイヤーマインドが何だかの意味や意図がある可能性は高い。
実際、過去生もしくは平行転生でさえ、単なるレゾナンス(共鳴)で起こる現象もしくは「記憶」でしかない。反対に必要な学びや気付きが無ければ、レゾナンスは起きない。
その共鳴をいかように使い、いかように変えていくかで「記憶」は変わる。
だから、思い出した過去が正確がどうかはどうでも良い。
それよりも、どこに自分が執着して、何をすれば違う見方ができるのか、何をするとその部分が癒えるのかの方が大切になる。
常に可能な学びに目を向けていると、この神秘的な比喩の奥の意味がわかるのかもしれない。