きょう国会で話をした学生が大きな注目を集めている。

私はかれのバックボーンがなんであるかは知らないし、関心もないが、発言内容は大変興味がある。

まず、非常にピュアだ。

そしてかれのロジックの立て方はとても理に適っている。

それば、安保法制を単に立憲主義に反しているという社会科学的な批判の立て方ではなく、人文学的なアプローチ、つまり「個」=リアルなひとつの命という視座から、安保法制を論じた。

本来、こういうアプローチは社会科学的には邪道だろう。安保法制を批判するなら法的アプローチで詰め寄らなければならない。たとえていうなら人間とはそもそもこういう生き物であるからその法案はよくないと言っているようなものだ。だからある種の人間は毛嫌いするだろう。

だが、こういうアプローチは本当に邪道なのか。私はひとつの方法だと考える。

かれをネットであれ、ネット外で容赦なく批判する人間は、

おそらく、日本とか、日本人という集団的プライドをくすぐる主語を使うのが好きだ。それを使うとき、日常のとるにたらない退屈な「個」をいっときでも忘れることができる。日本という集団と一体化することで大きな高揚感を得る。

日本は素晴らしい、日本人は優秀である…恣意的につくられた観念が大きくクローズアップされることである種の優越感が生まれる。観念とは人がつくりだした集団をまとめあげる規範的装置だ。法も宗教的教義も観念である。

これは日本人に限らない。古今東西の民族にあてはまる。

この観念が暴走するとどうなるか。

個の思いは抹殺され、観念だけが一人歩きする。

これこそが、若い命を特攻という狂気に駆り立てた本質である。

知覧で、大津島で、特攻に散った若い命の最期の手紙を読んで哭かぬ者はいない。

ひとり一人の「個」の思いがそこにある。国を思い、家族をおもう。

私が許せないのは、「個」を狂気に駆り立てる「観念」を意図的につくりだそうとする者たちである。とくに為政者はみずからの既得権益、権力を保持するためには手段を選ばない。

その者たちは、リアルな「個」の思いすら「観念」づくりのレトリックに利用する。集団的なプライドを乱す「個」の自由は許さない。

「観念」はときに「個」を凌駕する。歴史をみれば、そちらのほうがじつは普通なのかもしれない。

安保法制も、国際社会のフレームワークも日本の防衛とやらも、巨大な「観念」の創造物である。もっといえば国家自体が「観念」である。

この青年のリアルでピュアな「個」の主張は「観念」を浮き彫りにする対比の意味合いにおいて非常に大切なものである。

かれの主張を平和ボケのポエムという人達がいる。たしかにその通りだろう。

だが知覧、大津島のあの手紙もまた当時においてはポエムだったに違いない。国を挙げて狂気に突き進む中で、母の料理を懐かしみ、感謝を述べ、幼い兄弟たちへ後事を託す。軍という「観念」から見れば戦闘にまったく関係ないポエムである。

一方、逆も然り、安保法制も、日米同盟も、リアルな「個」から見れば、巨大な虚構であり、それが絶対だと信じる者たちのポエムに過ぎない。

今回の安保法制の行方がどうなるかわからない。だが、かの若い学生が堂々述べた主張は、決して幼稚なポエムでないと言っておきたい。我々に突きつけた刃である。