きのう、頑張れニッポン!で締めたブログですが、
きょうはちょっと掌返し…。
というのは、敗戦分析や当事者インタビューをたくさん見るにつけ、気になったのは、
「自分たちのサッカーができなかった」
「自分たちの形が作れなかった」
「自分に負けた…」
まあ、これら表現に集約されるのですが、主語はぜんぶ「自分」なんですよね。
この部分だけを切り取っているだけかもしれませんが、
多少、スポーツや格闘技の勝敗を知る者としては、
「自分たちのサッカーをさせてもらえなかった」
「自分たちの形を作らせてもらえなかった」
という考えかたが普通のような気がします。
戦術には、戦略の前提となる「バトル・ドクトリン」(戦闘教義)というものがあります。
汎用性の高い戦闘技術体系と訳されますが、サッカーにも当然各国存在するものです。戦術フォーメーションはその代表ですよね。
バトル・ドクトリンは平易な言葉で言えば、「得意技」、あるいは「得意技の組み合わせ」。国際大会で言えば、バトル・ドクトリンは複数備えておかねばなりません。しかもいくつかは本来非公開です。
でなければ、複数のバトル・ドクトリンを持つ一流同士の闘いの土俵にすらあがれません。
戦略の要は、この相手のバトル・ドクトリンをいかに封じるか。仕事をさせないかです。そして相手が見たこともない「ここぞ」のバトル・ドクトリンをぶつける。
かつてオリンピックで金メダルを取ったソフトボールの上野投手は、最後の最後で、アメリカで開発した変化球を繰り出して相手を仕留めました。まさに「ここぞ」のバトル・ドクトリンです。
その意味では、コートジボワールは日本の形を出させなかったわけですし、ドログバ導入後の「変則6トップ」というバトル・ドクトリンの前にはなすすべがなかったのでしょう。
素人目でみても、まさに「浮き足立ち」になっていました。
しかしながら、これは当の選手のみなさんが痛感していることでしょう。
自分たちの形を封じられないために何をすべきか。
自分たちの形を封じられたときになにをなすべきか。
闘いは当たり前ですが、相手あって成立するもの。
「自分に負けた」という反省の弁では到底かなうはずがありません。
私の掌返しが倍返しとなって責められるような結果を期待しています…。
iPhoneからの投稿
きょうはちょっと掌返し…。
というのは、敗戦分析や当事者インタビューをたくさん見るにつけ、気になったのは、
「自分たちのサッカーができなかった」
「自分たちの形が作れなかった」
「自分に負けた…」
まあ、これら表現に集約されるのですが、主語はぜんぶ「自分」なんですよね。
この部分だけを切り取っているだけかもしれませんが、
多少、スポーツや格闘技の勝敗を知る者としては、
「自分たちのサッカーをさせてもらえなかった」
「自分たちの形を作らせてもらえなかった」
という考えかたが普通のような気がします。
戦術には、戦略の前提となる「バトル・ドクトリン」(戦闘教義)というものがあります。
汎用性の高い戦闘技術体系と訳されますが、サッカーにも当然各国存在するものです。戦術フォーメーションはその代表ですよね。
バトル・ドクトリンは平易な言葉で言えば、「得意技」、あるいは「得意技の組み合わせ」。国際大会で言えば、バトル・ドクトリンは複数備えておかねばなりません。しかもいくつかは本来非公開です。
でなければ、複数のバトル・ドクトリンを持つ一流同士の闘いの土俵にすらあがれません。
戦略の要は、この相手のバトル・ドクトリンをいかに封じるか。仕事をさせないかです。そして相手が見たこともない「ここぞ」のバトル・ドクトリンをぶつける。
かつてオリンピックで金メダルを取ったソフトボールの上野投手は、最後の最後で、アメリカで開発した変化球を繰り出して相手を仕留めました。まさに「ここぞ」のバトル・ドクトリンです。
その意味では、コートジボワールは日本の形を出させなかったわけですし、ドログバ導入後の「変則6トップ」というバトル・ドクトリンの前にはなすすべがなかったのでしょう。
素人目でみても、まさに「浮き足立ち」になっていました。
しかしながら、これは当の選手のみなさんが痛感していることでしょう。
自分たちの形を封じられないために何をすべきか。
自分たちの形を封じられたときになにをなすべきか。
闘いは当たり前ですが、相手あって成立するもの。
「自分に負けた」という反省の弁では到底かなうはずがありません。
私の掌返しが倍返しとなって責められるような結果を期待しています…。
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