ときどき、宇野常寛氏が書いたものを読む。

宇野氏は、「評論家」という日本においてほぼ絶滅しかけている貴種ともいうべき職能を生業としている。

いま日本において、グローバルな意味合いとしての評論、批評は、「サブカルチャー」と呼ばれる分野においてかろうじて機能している。

サブカルチャーとは、一般的に、アニメーションやテレビドラマ、映画、小説、コミック、詩歌、音楽などの「物語」を総称したものだ。

サブカルチャーをテクストに人と世界のかかわりについて分析し、構造を読み解き、世界の成り立ちを再定義、再構築していくことが宇野氏のフィールドだ。

この分野には、私より上世代として宮台真司氏、大塚英志氏、同世代で、東浩紀氏、そして下世代に宇野常寛氏がいる。

もちろんほかにもいろいろな人がいるが、いま挙げたネームが各世代のスターと言えるだろう。

また極めて、個人的な意見だが、かれらは、いわゆるアカデミズムの世界においては異端だが、日本における思想、批評の力をグローバルレベルで引き上げているのは、サブカルチャーの世界で名を成す彼らだろう。

ある意味、ここに一流の頭脳が集結しているということだ。

宇野氏の批評の方法論は、流通ジャーナリズムの末端にいる私にとって参考になることが多い。

たとえば、宇野氏の著書で、私と同世代の作家宮藤官九郎氏のドラマ作品が論じられていた。

「たとえば、宮藤官九郎は、『木更津キャッツアイ』などの作品で「モノはあっても物語のない」郊外的空間を「モノと物語がともにあふれた」空間に読みかえ、凝縮性と流動性がともに高い中間共同体のモデルを魅力的に引き出した」

このお話しを知らない人にとっては、なにを言っているか、まったくわからないだろうが(笑)、

流通ジャーナリズム的に言えば、

かつて、ある文化人が、地方都市においてイオンなど金太郎飴的チェーンストアがある風景を、「ファスト風土化」と名付け、伝統的地域コミュニティの喪失、昭和ノスタルジア回帰論を唱えたが、

宮藤官九郎は、この「どこでもある風景=私にとってなにもしてくれない世界=終わりなき不毛の荒野」を逆手に魅力的かつ小さな、でも終わりのあるコミュニティ創造を図った作家のひとり。

さらにいえば『スウィングガールズ』や『下妻物語』といった作品では、ヨークベニマルやしまむらなど郊外金太郎飴のメタフォールが、作品の根幹を成す豊かなコミュニティ、人間関係のスパイスとして登場していたのは興味深い。

つまり、

郊外の金太郎飴的風景にコミュニティの喪失をみるのは、思考の停止であって、

豊かなコミュニティを育むのは本来、豊かな想像力が源泉であるのに対し、

金太郎飴的風景が、実は次なるコミュニティをつくっていたというパラドックスにすら辿りつけない想像力を、件の文化人は枯渇しているのである。

金太郎飴的風景を金太郎飴的売場と読み替えてみたらどうだろうか?

チェーンストアの売場を金太郎飴的売場として、「モノはあるけど物語がない」と断じる人は多い。

でも、そこに「モノも物語もある」という想像力で豊かなコミュニティをつくりだすことは果たして不可能なのか?

私は、実はそれは可能だと強く思う人間のひとり。

可能にするのは、ひとえに、思考停止と自ら信じた世界に引きこもり、他を排除する暴力(それがいやならなにもしない)をいかに乗り越える想像力を備えるかと言うことではないかと思う。

まあ、宇野氏が開いてみせた世界の扉にいくまでには、宮藤官九郎氏の一連のドラマ作品批評でさえ、ワンピースに過ぎないが、

批評というチカラは、

現象の本質を読み解いていくうえで、重要な補助線になることは間違いない。

私は、そう信じている。









iPhoneからの投稿