きのうの朝、一番手近にあった吉本隆明本を持ち出して、
朝マックしながら、しばし読みふけっていました。
石川啄木と俵万智の共通項と相違を鮮やかに取り出した視点の見事さにあらためて感じ入っていました。
2人とも、それまでの短歌にはなかった平易なことばで日常のなんでもないできごとをうたい、そこに普遍の余韻をとじこめました。
しかし、前者は自分が、天才という自意識を隠せなかったのに対し、
後者は、天性のセンスを感じさせながら、ことばの上では、自意識を一切表すことはありませんでした。
吉本は、俵を評して、
「わたしにとっては、そんなふうにその人が、職業や専門家らしくない、なんでもないような顔をしているというのは、人間として理想の人格でもある」。
このことばはそのまま吉本隆明その人を表しているのではないか。
そんなふうに思いました。
夕方、丸の内の丸善で約束の時間まで本を物色していました。
ここの松丸本舗は、私のマイストアのひとつです。
きのうは、一階で「日本」を眺めていました。
一流書店の入口にある平台は、「世界」を現出します。
日本はこれから益々ダメになっていく…というテーマがおよそ9割。
1割はそれでも日本が、ダメにならない理由を懸命に訴えていました。
まさに百花繚乱の日本論。
みんな日本のことを考えているんだなあと変なことに感心していました。
でも、こんなにみんな日本のことを思い、考えているのに、閉塞感が漂っているのはなぜだろう。
啄木が明治日本の閉塞感を書いたことに思いを馳せつつ、そんなことを考えました。
堕落論ではないけれど、
一度堕ちるところまで堕ちろと言わんばかりの日本論も多い。まさに啄木の世界です。
私もどちらかといえば、日本悲観論です。
だからこそ、きのうブログに書いたユニクロの銀座店のような、小さくも雄々しい突破口が大切だと感じています。
絵空事を描く力が必要ではないかと思います。
「僕がほんとうのことを言うと世界が凍る」
こう書いたのは、たしか吉本だったと思います。
常に大衆とともにあり、大衆の力となり、大衆の力を信じた希代の思想家のことばは、思想家の人格とは裏腹にときに戦慄をもたらします。
たったひとつのフレーズがもたらす戦慄は、
たったひとつのことばからも再生ができることを意味します。
啄木の人生そのものは限りなく堕落したものでした。
しかしそこに、普遍のことばの輝きが宿っており、世界を変える力がありました。
だからやはり、絶望や堕落の先に希望はあるのだと思うのです。
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