このところ、移動と原稿執筆が続いています。

駆け出しのころは、質より量と言われ、ひたすら取材しては書きまくっていました。

いまもあまり変わりません。よく編集者は「自分が書くな、書かせろ」という人がいますが、私はどちらかというと自分で書けないのに、どうして人の書いたものを評価できるのだろうと考えるタイプです。

良し悪しは関係なく、あくまで自分の志向です。プレイングマネジャーといえば格好いいのですが、まあキャパを超えてしまいますと、あとで自分の首を絞めることになりますが…。

自分で一切書かなくても素晴らしい名編集者はいます。お酒を飲めない名バーテンダーみたいなものでしょうか。私のような凡人にはこんな真似はできません。ひたすら泥臭く書くだけです。

私の尊敬するチェーンストア理論の2人の泰斗から奇しくもまったく同じようなレクチャーを受けたことがあります。

それは、原稿の中に、「きちんと」、あるいは「しっかり」という語句は使うな、というものでした。

よく、「きちんと考えよう」とか「しっかり対策を打たねばならない」というような使い方をしますね。

泰斗お2人に、口を酸っぱくして言われたのが、

我々の仕事は、「きちんと」や「しっかり」という言葉で曖昧に表現される中身、あるいは内容を示すことであるということ。

なので、わたしもなるべくこのふたつの副詞は、地の文では使わないようにしています。※まあ、あまりもの量産で使っちゃうこともありますが…。(笑)

新聞記事と政治家の答弁(官僚の作文)が空疎に聞こえるのは、この「きちんと」と「しっかり」のオンパレードだからです。

耳触りがいいですが、中味がありません。

「しっかり売場をつくらねばならない」

「きちんとお客様とコミュニケーションをとろう」

耳触りはいいです。これで原稿を締めたらキレイです。とても楽です。(笑)

でも専門誌は、経営に直結する情報を扱います。なので耳触りがいい表現は不要です。

プラグマティズムにある意味、徹しなければならないところがあります。

だからシンドいところもあります。でもそれがわたしの仕事だと思います。ほかの人がシンドいことをやる。だから存在価値があるのだと思います。

まあ政治家や新聞が耳触りのよい表現を多用するのは、ほんとのことを言えないためという見方もあります。

「僕がほんとうのことをいうと世界が凍りつく」といったのは、たしか吉本隆明。

言葉をつかう職務に携わる者であれば、「きちんと」「しっかり」のもつレトリックの本質を理解して使わねばなりませんね。






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