昨年の月刊MD9月号で、渥美俊一先生追悼特集を行い、わたしも一文を載せました。


これはのちに「お別れ会」が行われた際のしおりにもご掲載いただきました。


すこし長いのですが、このブログにも残しておきたいと思って、アップします。


ここからです↓


ノーベル物理学賞受賞者益川敏英先生の講演を聞いた。


古代、天空の星は地球を中心に回っており、人々は不規則な天体の動きは、天の啓示を意味するものと考えていた。その後、400年以上前、ブラーエが天体観測を行い、その記録を分析したケプラーが惑星の動きを説明する3つの法則を発見した。これらをもとにニュートンは万有引力の法則を導き出し、あらゆる物体の動きを計算できるようになったという。


これは、天体の動きという「現象」からケプラーの法則という「実態的」な段階を通り、ニュートン力学という「本質的」な理論に発展した例だ。ニュートン力学は、アインシュタインの相対性理論への淵源ともなった。


私は、戦後混沌とした日本の商業界における渥美先生とペガサスクラブの活動に重ねた。「創造的な力」とはいま必要なもの、次に来るべきものを想像し、実現することだと思う。その過程には成功も失敗もあるが、新しいものを生んでいく。


先生は、戦後流通の構造改革をめざし、米国に学び独自に体系化したチェーンストア理論と江戸時代の商家を源流とする「商人道」をたくみに組み合わせ、日本にチェーンストア志向産業という新しい力を誕生させる理論と実践の支柱となった。


その理論構築と推進のためのエンジンづくりに、ご自身の超人的な努力と当代一流のスペシャリスト、そして実践者を集結せしめた。


それはさながら、天文学が400年以上かけて到達した「現象の収集」、「実態の分析」、「本質(原理原則)の抽出」に至る過程を、わずか30年の道のりで成し遂げてきた原動力になったのではないかと思う。


そのあまりのスピードの速さに歪みも生じた。もともと先生は日本に真のチェーンストアを作り上げるためには、零細資本から大資本への転換を図ることを目的とする80年代までの「ビッグストアづくり」と本格的マスマーチャンダイジング産業へと脱皮する90年代以降の「チェーンストアづくり」を段階的に分けており(流通革命2段階論)、およそ10年を周期にして理論の核となる主張を変化させてきた。


ビッグストアづくりの過程においては、零細資本から産業としての体を成すために大資本に転換していく手段として、小売業を「不動産業」として割り切るという方法論も60年代に提示している。


一方でビッグストアづくりからチェーンストアづくりへの転換はすでに70年代後半から80年代にかけて示されていた。チェーンストアづくりとは商品づくり、すなわちマスマーチャンダイジングの方法論であることを提言していたのである。


しかし、90年代日本のバブル経済崩壊によって不動産によるビッグストアづくりの方法論に過渡に依存しチェーンへの構造転換できなかったいわゆる「ビッグストア」企業群、ダイエー、マイカルなどあまた倒れることになる。


90年代以降、マスマーチャンダイジング理論をもっとも日本的に発展させたのはコンビニエンスストア企業である。4ケタの店舗数、売場面積とアイテム数を絞り、「コンビニ」というTPOSでくくった商品構成と品揃えを行い、一品当たりの販売数量を極大化させるビジネスモデルだ。


セブンイレブンは、フランチャイズパッケージをもって町の零細小売業の連合体を巨大なメーカー流通と対等に交渉できる仕組みを作り上げたのである。


形こそ違え、これもマスマーチャンダイジングの方法のひとつだ。


ユニクロやニトリといった製造小売業のモデルもマスマーチャンダイジングの方法論がベースとなっている。


先生が70年代から蒔き続けた種は、さまざまな形態で発展しているのだろうと思う。


高度に発展した情報社会が産業に与えるインパクトが大きくなった時代にあってもその本質は変わらない。そしてこれからも新しい力が生まれていく源泉となっていくに違いない。


昨年来、わたしは法政大学が刊行する単行本編集に携わる機会に恵まれた。先生の遺された膨大なテキスト、講義録を読むにつけ、その長大な構想力と卓越したロジック、方法論に触れるたび、嘆息せざるを得ない。


流通ジャーナリズムの世界において私が先生から直接薫陶を受けた時間はわずか13年程度にすぎないが、その最後の世代としての責務を痛感する。


出張の帰途、棺の中のお顔を見て最期のご挨拶をすることができた。その傍らには最新版の「用語集」が納められていた。


「私はこのことについて知っているという事例を誰よりも増やしなさい。そして言葉の定義を明確にして誰よりも慎重に使いなさい」。


あるとき先生からいただいたこの言葉をいまでも反芻する。


先生に教えを受けた者として恥じぬ仕事をしているかと。