岡本太郎はことし生誕100年で、東京国立近代美術館で展覧会が行われていますね
駅のポスターでよく見かけたので、ひとつ行ってみようと思ったのですが、5月8日までだそうで、このGW最後の混雑が予想されそうですね。
わたしはどちらかと言えば、美術展や神社仏閣の類は、平日の閉館間際にはいってゆっくり見るのが信条なので、今回はちょっと難しそうかな。
むかし京都の大原の通称「額縁寺」で、夏のおわり、閉館間際に入ったら、「ゆっくりしてって」と言われ、日が沈むまで1時間ひとりでぼけーっとしていました。あんな贅沢な時間はなかったですねえ。
さて、展覧会は見れないかもしれないけれど、彼の著作は読み直したいなと思って、図書館へ。
有難いことに、近所の図書館に行ったら、「岡本太郎全集」がそっくり戻ってきたばかりで、
「沖縄文化論」「神秘日本」「出羽三山紀行」などが収録された巻2冊ほど借りてきました。
むかし民俗学にはまっていたころ(*いまでも大好きですが)、手当たり次第読んだ本のうちのひとつだったと思うのですが、
あらためて読むとやはり面白い。
岡本太郎さんはどちらかと言えば、父母にあたる一平・かの子の恋愛観のほうがおもしろかったりするのですが、
岡本太郎の「沖縄」と「東北」を見る目は、さすがにすごい。
「美しいものではあっても、美しいとは言わない。そう表現してはならないところにこの文化の本質がある。生活そのものとして、その流れる場の瞬間瞬間にしかないもの。そして美的価値だとか凝視される対象になったとたん、その実態を喪失させてしまうような、そこに私のつきとめたい生命の感動をみとるのだ」。(沖縄文化論)*原文ママ
「夜は女の世界、女は夜の生物だ。昼間はただの婆である。現実の哀しみが重い表情にとじこめている。だが、夜いわば根の国、そこで女性はぎらぎら輝きはじめる。恐山でも川倉でも死霊が住む場所だ、男は怖くて近寄れないが、婆さんたちは夜中に賽の河原をさまよい混沌のなかで語り、踊り、生き生きするのだ。それが異常に開く瞬間をみると私の魂はこころから揺さぶられる」(オシラの魂)*筆者が一部まとめ
この東北の「婆」を写真で切り取ったのが、内藤正敏氏。
早稲田の理工を出て、民俗学者にして写真家となった異色の研究者です。
「遠野物語」を金属採掘との関連で読み解いたユニークな研究で知られています。
この人の、1960年代後半から1970年代前半にかけて発表された、「婆バクハツ!」「遠野物語」の写真集は暗闇にストロボ撮影を試みた異色作。まさしく岡本太郎が魂を揺さぶられた、「婆」の生を集めたもので、
わたしも最初この写真集を見たときは、なんとも言えない戦慄が走ったことを記憶しています。
まさしく、「遠野物語」の序文のとおり、「山人をして平地人を戦慄せしめた」わけです。
柳田の描いた山人世界の異形の神々の闇と、里人の村の内部、人間の内側の闇の深さ・・。
内藤氏は岡本太郎の撮った東北のこれらの写真を再トリミングした事蹟もあり、やはりここに交わる点があったのだなあと思います。
わたしがもっとも気に入っている内藤氏のことば、
「私にとって、写真がモノの本質を幻視できる呪具であるとすれば、民俗学は、見えない世界を視るためのもうひとつのカメラだ」。
理系ご出身らしい、透徹した視座ですね。
わたしも現象の本質を見抜く2つのカメラがほしいと常に思います。
さて、岡本太郎は、戦後沖縄の島々を訪ねて文化論を書きましたが、そのおよそ30年近く前に沖縄をめぐったのが、折口信夫です。
岡本太郎と折口信夫の沖縄論比較は、また別の機会に。
GWは読書三昧したいものです。とくにこういうときは古典を紐解きたいですね。
岡本太郎の著作なんて10年振りくらいです。でも当時はわからないことも多かったような・・。というよりわかった気になっていたのでしょうね。
いま、理解できるものがすこし増えたような気がします。
尊敬するある先生からこんなことを言われました。
「基本や原理原則は、遠回りしてはじめてわかる」。
基本や原則なんてだれもが知っているけれど、シンプルすぎて言葉面だけをおえば、だれでも理解できる。
でもそれを本当に自分のものにできるかどうかはやはり「遠回り」(経験知、無駄)が必要だということですね。
書店に行けば、成功のための原則論が所狭しと並んでいます。
また成功なんていらない満足の高い生活を実現する「原則」もある。(笑)
原則は百花繚乱です。でもそこに書いてあるのは、実は「当たり前」のことばかりですよね。
当たり前のことがいかにできないかということが人間の本質なんだなあとあらためて思います。
反省こめて・・。