日々に流されて久しく怠っていたブログ…
きちんとしたインプットもアウトプットもされていない毎日です。
1か月ほど前に行ったポップアート展の感想など今更。
やっぱりかじっただけの知識では全然美術を分かれていないなぁと思ったのでした。
勉強、勉強・・・
ポップ・アート展示 @国立新美術館 10/13
ジャクソンポロックが大好きな私としては、ポップアートはちょっと進み過ぎている…といったところで、ポップアートの作品自体に絵画的興味があるわけではないのだけれども、“ポップ”という言葉にはとっても興味がある。
アイドルを見たりしていると彼らが“ポップ”であり続けることにどれだけ犠牲を払っているのかだとか、ポップアートについて言えば“ポップ”という言葉にどれだけ作家が皮肉をこめたのかとか考えると、ぐるりと回ってすごく興味がわいてくる。
ポップアート展、展示されていた順を追って。
まず始めはロバート・ラウシェンバーグ。
ラウシェンバーグは手の痕跡を消そうとするポップアートとは反対でとても作品は表現主義的であり、ポロックの延長線上にあるとも言える。
ただここに入口があるのは、彼が作品を作る心は明らかにポロックとは異なった皮肉を持っている。ある意味ポロックまでの作家たちが“高尚”な意図を持って作品を作り、理論的にそれを完成させたが、ポップアートの作家から見ればそれは現実離れした芸術に映ったかもしれない。ポロックが描いた絵画の理想は理論的な到達点であり、そこには現実はないのだ。もちろんそれが間違えとか言うのではない。
表現主義的な方法でポロックとは異なる題材の都市の現実をラウシェンバーグは描くのだ。
続いてジャスパー・ジョーンズ。
旗・標的・数字など記号をモチーフとしたジョーンズ。
記号という2次元のものを絵画的に扱う鑑賞者への皮肉…
そんなことを考えながらいると頭がぐるぐるしてくる。
彼がアメリカ国旗で訴えたかった皮肉は、「ジャスパージョーンズという偉大な作家が描いた有名な作品」として認識される今この国立新美術館ではいったいどういう存在になるのだろうか…??と思うとまたわけがわからなくなってきた。
「壁シリーズ」では永遠と同じ模様が違う色で描かれ、違う名前がつけられている。ずっとこれを眺めていると心の中では(・・・??)が浮かんできた。当時のウォーホルらのポップアートのように題材がはっきりとしてものではなく、彼の何も映し出さないオールオーバーに近い壁シリーズは、ジョーンズはウォーホルらポップアートの精神にはのっとらず、ポロックの精神の方に近かったように思う。
ジムダイン・ラリーリヴァース
今回作品は少なかったけど、名古屋でジムダイン展がやっている模様。
カラーチャート。
ここら辺から色みがポップアートになっていく。
クレス・オルデンバーグ
ソフト・スカルプチャーで有名なオルデンバーグ。
都市で物が溢れる中で、日常のものを巨大化し、そしてソフトスカルプチャーにすること、それは「機能性を奪うこと」だとよく言われるが、
例えばドラムがふわふわの彫刻になっているのを目の前にすると役立たなさが一層際立ち、気が抜けて笑いがこみあげてくる。
都市の中で何かに追い詰められている私達はこういうスポっと抜ける笑い
必要なんだかなぁと思った。
アンディ・ウォーホル
ウォーホルはもちろん、「シルクスクリーン・ペインティング」と呼ばれる手法を導入して、絵画は一度きり作者が生みだすものという概念を変えたことで有名だ。「自己を消し去り、機械になりたい」という発言は有名だが、アメリカの当時の社会が生み出したウォーホルの哲学はもっときちんと勉強しなくばなぁ。
とにかく大判のシルクスクリーン・ペインティングは圧巻でした。
あのカラフルな衝撃・そして繰り返される全く同じ絵はより私達に現代社会のむなしさを強調していた。
ロイ・リキテンシュタイン
リキテンシュタインの絵画はパッと見、カラフルに見えるけれども、三原色のみしか使用されていない。
少女が手鏡を見る絵は、ヴァニタスの継承であったり、過去のイメージの引用を多く用いていた印象。
そして彼が用いたマンガのイメージ。
彼は漫画の記号性に注目し、題材とした。漫画という芸術ではないものを芸術として描く。その行為はジョーンズが旗や数字といった記号をモチーフとしたのを同じ精神だ。
このあと、メルラモス、ローゼンクイスト、ウィッセルマンなどの作品もあったが長くなるので割愛。
芸術とは何か?そういって今答えられるものを描いたときに、もはやそれは芸術ではない。芸術とは何か?という概念を壊したときそれは始めて芸術となるのだということを追い続けたのが絵画の歴史だとしたら、
そこに都市の皮肉という文脈をもって概念を壊し続けたのがポップアートなのだなと思った。
なんだか上手くまとまりきらないなぁ。。。