8月11日
三菱一号館美術館
「浮世絵 floating world」



Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ期に分かれた浮世絵展。
Ⅱ期を見てきた。北斎・広重の時代。

今まで日本画は全然興味がなくて、最近日本画が好きな友人ができたので、その人に連れられて行った。

こんなにまじまじと見たことがなかったので、単純な感想は「すごく素敵だな」という印象。

印象派などの西洋画において多くの画家が浮世絵の影響を受けているのは知っていたが、普段から西洋画になじんでいると確かに浮世絵を見ると違う部分で心が揺さぶられた。
そういえば、三菱一号館美術館開館のときにやっていたマネ展にあった目玉ゾラの肖像画もはっきりと背景に日本画の影響があったなぁと思い出す。


浮世絵の特徴は
①陰影をつけない線描や点描
②図柄がはっきりしていること
③鮮やかな色彩
④アシンメトリー性
⑤対比遠近法

印象派の時代と言えば、西洋絵画はその少し前の写実主義の時代から絵画の歴史が大きく動いた時代。
絵画は宗教画から解放され、題材が大きく変わった。ここも浮世絵という演劇、風俗、肖像、風景などを描くことに共通点がある。
世界的に時代は権力から解放される時代だったのだろうか…

写実主義からはじまり、そしてモダニズム絵画の大成ともいえるポロックに至るまで絵画は“何か”のためにではなく“それ自体”のために変化していきより“芸術”になっていく。
写実主義から印象主義へ移り行くときにあった一種の“崩れ”のようなものが、印象派の画家たちを浮世絵にひきつけているような気がする。
線・点の意識はスーラらをはじめとるす点描画たちやゴッホ、
鮮やかな色彩、色彩の解放はヨーロッパ絵画にとっても後々問題となってくるものだ。それはのちにフォーブの流れにまでつながるかもしれない。



日本画の歴史を知らないので下手なことは言えないが、
西洋画に比べ日本画は線や点の意識がより“絵画的”だったのではないかなと思う。
ルネサンス期の絵画などを思い起こせば線や点を意識するような絵画の作りにはなっていない。

再度展覧会の絵を思い起こすと、私が最初にぼんやり受けた印象「すごく素敵だなぁ」というのは、
そのはっきりした線、鮮やかな色彩、そしてどこか違和感を感じるアシンメトリー性、そして背景と主題のアンバランスさ大胆さ。
これらがすべて集まって見るものを引き付ける。

Ⅲ期は文明開化の時代になり、対象に西洋的なものがまじってきて、また色彩もさらに鮮やかになっているのをポスターで確認した。
東京にいないのでⅢ期が見れないのが残念…


村上春樹の小説、あまり好きではないけれど、なんだか読んでしまう。


なんでだろうと考えたときに、まず、現実的な理由として、読みやすい。

読みやすいのに、なんだか自分が文学を読んでる気持ちになる。


村上春樹読みましたよ、って気持ちになる。

これは完全に無駄な奢りだけれど、正直なところそういう部分もある。


だからと言って他の人ではなく彼を読んでしまう理由は他にもきっとあるはずだ、と思って、

今日『ねじまき鳥クロニクル』を読みながら考えてみた。


彼の小説に出てくる主人公はみんな孤独だ。

私はその孤独に共感しているんだと思った。


彼の小説を100%理解はできないけれど、その部分だけは共感する。


そして、振り返ってみると、私は孤独にばかり共感してきたなと思った。


歌や小説、映画に孤独を見つけては、その作品を好きになった。


私にとっての作品の「良い」「悪い」の基準の中に、孤独に共感できるかというのがとても大きな割合を占めていることを自分で思い知った。


どうして孤独に共感したがるんだろう。


孤独は1人で感じるものだ。だからこそ、誰かと共有することは難しい。

誰かと共有している時点でそれは孤独ではなくなる。


それでも人は孤独から救われたい。そして孤独は他人が同じ孤独を持っていることで救いをみるのかもしれない。

だからこそ、人との会話とか相互的なコミュニケーションの中ではなく、歌や小説といった一方的な表現の中に人は自分と似た孤独を読み取り、救われたような気持ちになるのかもしれないと思った。

私はなんで文章を書くこととか、人に伝えることが苦手なんだろうと思ったときに、


きちんと表現することをずっと避けてきたからだと思った。


自分の内面を他人に知られるのが怖かったり、恥ずかしかったりしたんだと思った。


だから表現する練習。


発散されない感情は外部へ出すことを拒んでいるうちに内部で淀んでいってしまう。