こんにちは。
メンタルケア心理士®でチャプレンのなぎさです。
さて、今回は【祈る】という行為についてです。
自分の信じている超越者─この場合はいわゆる神仏ですが、それに祈るという行為自体、とても心に良いものだと私は考えています。
まず、口に出して祈ることで、自分がいったい何をどのように願っているのかが明確にわかります。
そして祈ることで、心(魂)にいくばくかの慰めがあると思うのです。
ただ、この超越者というのは「いと高き方」と表現したりするように、自分より遥かに高い方であるということは覚えておいたほうがいいと思っています。
そうでないと、
「祈ったんだから叶えられるはず」
「祈ったのに叶えてもらえない」
「これだけ徳を積んだのに叶えられない」
「頑張って断食したのに叶えてくれない」
「こんなにもお布施(献金)をしたのに叶えてくれない」
「これを犠牲にしてきたのに叶えられない」
になってしまい
「祈っても叶えてくれないこの神(仏)はダメだ」
になってしまうのです。
祈ったら叶えられるという宗教を「ご利益宗教」と表現したりします。
これでは、祈る自分がその神仏をコントロールしている状態になってしまいます。つまり、上下関係が逆転しているのです。
これこそ、「人が創作した何でも言う事を聞く神(っぽいなにか)」になってしまいます。
神は、私たちの言葉にならない祈りでもその耳に入れてくださいます。
ですが、「聞いてくれる」と「叶えてくれる」は違います。
神がよいとするタイミングで、よいという手を差し伸べてくださることが、たとえそれが祈る自分の当初の望みと違っていても、結果的に自分のためになったりします。
実例として、私は大学の看護学部卒ではなく看護学校卒です。
もう5年ほど前になりますが、子供が保育園入園する際に復職ではなく学生として近くにある看護学部にいきたいと、どうか学費など経済も守られますよう、主よ私の祈りを聞き入れてくださいと涙ながらに祈りました。ですがその祈りは叶えられず、復職することになりました。
入職(医療関係では就職のことをこのように言います)する半年前から毎日入職先の科で扱うことになるであろう看護について再勉強をし、心理士やカウンセラー資格を取り準備をして仕事を再開しましたが、自分でも信じられないほどの短期間で離職を決意。
そんな時に「辞めるならうちに来て」とお誘いいただけた先が現職場です。現実的には私のキャリアでは到底雇用されないのです。しかし当初の祈りの通りの場所で私は学生としてではなく職員として仕事をしています。
そして今この仕事がこれまでの看護キャリアの中で最も幸せで最も楽しいものです。復職のために取得した資格がすべて今の仕事で活かされています。やりたかった事が叶えられています。
このように、
私が叶えてほしいと思うこと ≠ 神がよしとされること
神がよしとされること = 私にとってよいこと
なのです。
この違いがあるのです。
私たちは、自分がこうありたいと望むもの、理想をもちろん祈っていいのです。それが素直なあなたの気持ちですから、こうしてほしい!と、取り繕ってきれいな言葉を並べず正直に祈っていいのです。
そして、祈りの締めくくりに、ぜひ
「しかし、御心のとおりになりますように」
と、あなたにとっての最善を差し伸べてくださる神にそのタイミングをゆだねるというのをおススメしたいです。