こんにちは。
メンタルケア心理士®でチャプレンのなぎさです。
今回は「神ってどんな方だ」というお話です。
突然ですが、「ある事実」があるとします。
これを2人の人が見た・体感したとします。
2人がそれぞれ「ある事実」を説明してくれますが、見方が違うと全く違う印象を受けます。
例えば、このCOVID-19で駅に人が少ないという事実があります。
Aさん「みんなで協力して外出自粛しててすごい!」
Bさん「閑散としてて活気もないし、残念だよねー」
Aさんの感想に近い人はAさんの言うことに賛同するでしょうし、Bさんの感想に近い人はBさんの言うことのほうに賛同します。
これをどう受けたか、どう理解したかは人によるのですね。ですから伝え方も違ってきます。ですが、良し悪しではなく「駅に人が少ない」というものは紛れもない事実です。
では、創造主たる神はどうでしょうか。
「創造主」というのがあります。これをいると受け取る人もいますし、いないと受け取る人もいますが、今回はいるという前提で話を進めます。
さて、この神はどんな方でしょうか。
キリスト教の教理として、神は正義の方です。正義は悪を絶対に赦すことはしません。ですので悪には裁きを与えます。
※赦すと許すは違います。
この場合、神は正義ですが、正義は神ではありません。
また、神は愛ともいわれます。恵み深くあわれみ深い方です。弱い者を立たせ、ご自分の庇護下に罪深い者を置かれ、赦しを与える方です。
この場合、神は愛ですが、愛は神ではありません。
真逆?どっちが神なの?
どちらか一方が神でどちらか一方は神を騙る偽物ではありません。神は正義であり愛でもあるのですね。
ある人から見ると、神は物凄く厳しく恐ろしく畏れ多すぎて直接祈るだなんてそんなことできないと感じます。しかしまた別の人から見ると、神は愛溢れていて親しみがあり自分のすべてをお任せできる大きさがある方だと感じます。
神はその人が理解しやすい側面を私たち一人ひとりに顕現されるので、「絶対に私に示された神像が正解で、他の人の神像は嘘」ではないのですね。
もちろん明らかに解釈がおかしい場合もありますが…。
ということで、まずこれを押さえた状態で、私なぎさがみなさんにお伝えできる神とはどんな方か。
神は父です。
「父」と翻訳されている単語は聖書(新改訳2017版)には旧約聖書で766回、新約聖書で357回、合計で1,123回出てきます。
ここでは「天にいる私たちの父」という表現がされた新約聖書から、どんな父なる神なのかを見ていきます。
まず旧約聖書(キリストが初臨する前)は神はいと高き方であり父という概念が信仰者にはありません。旧約聖書を読んでいると「父じゃないか」と感じる記述はありますが、イスラエル民族がそう感じていたとは言えないと私は思います。
新約聖書になって主イエスが神のことを父と呼びました。また弟子たちが「どう祈ったらいいのですか?」と主イエスに質問をした時に「こう祈るんだよ」と教えられた【主の祈り】と呼ばれるものがあります。
ですから、あなたがたはこう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。
御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、
地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みに合わせないで、
悪からお救いください。』
──マタイの福音書6:9~13
これらからクリスチャンは神を天の父と表現します。
旧約聖書の時代では常に、神に祈るには祭司という人を介さなければなりませんでした。民は直接神様に祈れないのです。
しかし、主イエスの十字架以降、現在の私たちは神に直接祈ることができます。これは(プロテスタント的に)万人祭司=みんなそれぞれが祭司であるという理解に基づきます。
あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。
──ペテロ第一2:5
ここから、私たちはみんなが祭司となる…万人祭司という理解になります。
主イエスが十字架の死を迎えた時、神殿の聖所と至聖所を隔てる幕が上から下に(天から地に)避けました。
しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
──マルコの福音書15:37~38
……よくわかりませんね。私たちが理解しやすい日本文化の中で例えてみましょう。
神道でいうと拝殿があり本殿というのがあります。別棟の神社もありますし神前簾で仕切っている場合もありますが、いずれにせよ一般人が入ってよい区域(拝殿)と神聖な区域(本殿)を仕切り、区別するためのものです。この拝殿と本殿の間に幕があると考えてください。
参拝者は拝殿で参拝しますが、本殿には入ることができません。
この区別が取り払われ、誰でも本殿に入ることができるようになった=誰でも直接神に祈ることが可能になった、というのが、この「幕が天から裂けた」です。
下から裂いたのであれば、人がビリビリと裂いたことになるのですが、天から裂けたので神がその仕切りを取り払われた=神が直接祈っても良いと招いてくださったということになります。
ここまでの聖書のことばを根拠として神様を天の父として直接祈れることがわかりました。
ではどんな天の父でしょうか。
そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。
──マルコの福音書14:36a
主イエスが言ったことばですが、「アバ」と呼ぶんですね。アバとは何でしょうか。
原語のギリシャ語ではΑββαと書きます。これは幼児が父を呼ぶ時の呼び方です。英語でdaddyと言いますが、日本でパパ、父ちゃん!というような物凄く親しみのこもった表現です。
主イエスがこう神を呼んだだけでなく、私たちは神の子供とされました。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
──ローマ人への手紙8:15
そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。
──ガラテヤ人への手紙4:6
と、ここから私たちも天の父を、その天の父の子として「パパー」と呼ぶのです。
私たちを神の子供としてくれる「御霊」(創造主たる神の第三格位=聖霊)を受けて、私たちは神様を親しみを込めて全身全霊で自分を委ねられるお父さんとして祈ることができます。
この間柄には他人は入り込んでいません。
「神様と私」というとても個人的な関係です。
私たちも親として我が子には気持ちを素直に言ってほしいなと思います。困っていること、悲しかったこと、うれしいこと、楽しいこと、自慢したくなる気持ちも教えてほしいです。
そうかー、頑張ってるね、すごいね!と我が子を褒めたいです。偉いね、大好きだよと抱っこしてあげたいです。ぎゅっと抱きしめてあげたいです。頭をなでてあげたいです。
神様はこれ以上の愛で私たちを見ておられるので、遠慮せず神様に言っていいのです。これが祈りになります。
親子関係において人は親離れ・子離れをしなければ自立した社会生活をするのが難しくなります。
ですが、神様との親子関係は親離れ・子離れをする必要はありません。
世界を創造した方で、すべてを手に握っている方が私たちの天の父で、私たちはその父から親離れ・子離れしなくてもよいのです。
……なんだか凄い事だと思いませんか?
これが私から見えている神様の側面の一部です。
みなさんにはどんな神様の側面が見えていますか?