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七戸ときどきラスベガス

徒然なるままに…危険思想

“聖書を長く読んでいると、神様から来ているものとそうじゃないものの違いというのが感覚でわかってくる”と、以前通っていた教会の牧師先生に教わったことがある。実は、その感覚というものが美術品や音楽を鑑賞していたり日常的な些細なことででも感じられて腑に落ちることが多い。

 

その作者や演奏者が”神の概念“を持って制作したのか、演奏したのか、ということが後々見手や聞き手に”なんらかのポジティブな印象“を与えてくれる、という事実は時が昔であれ現在であれどんな作品にも存在する。数百年前に描かれた絵画が見手の心を打つ、ということはいつの時代も変わらない。

 

さて”宗教“というカテゴリーでしか、人は救いを得られない、と偏った考えを以前は持っていた。古いところで言えば仏教やキリスト教、そして時代を経てさまざまな宗派に分派して、現代の新宗教やカルト宗教まで… その霊的な修養団体でしか”救い“を感じることができない、と。ところが歳を重ねるにつれ、”救い“とされる、もっとくだけていえば、”幸せだなぁ“と感じることが、日々そこらへんに偏在する娯楽やレジャーの類、家族や友人、同僚たちとのインターアクション、においても存在するのだが、単に“幸せだなぁ”、や“楽しい”という段階を超越した、“救い”というフィーリングは、“宗教”のみならず、作者の信仰心や“神の概念を持つか否か“、によって見手・聴き手に与えられるか否かが決定されるようだ。

 

以前、月並みなのだがルーブル美術館を訪れた際、(オルセー美術館で鑑賞したものであったのか記憶は定かではないのだが) 古代遺跡の美術品から近代印象派、そして現代作品まで網羅されていた巨大なコレクションのなかで、人混みの中一際目立っていた存在が、ダ・ヴィンチのモナリザであった。冷ややかでそして妖艶な笑みを浮かべたモナリザは、大変美しく、数学的にもバランスのとれた構図で、まるで”聖母“の印象があった。その絵に、そこに居合わせた見手は皆、”惹きつけられ“、そして”なんらかの救い“を得ているように感じた。

 

最近知ったニューエイジやオルタナティブの類で、時折クラシックの領域もカバーしている、Il Divoという歌い手の音楽は救いそして癒しを与えてくれる。私個人は、新約聖書の

使徒行伝において、イエスの弟子たちが艱難辛苦の中布教して行き、その結果殉教という形でこの世を去るまでの“布教ドラマ”が彼らの歌によって描かれるシナリオと重なる、と感じる。非常に、信心が深く“神信仰”の考えが、生き方のみならず、魂のレベルに存在する人たちのグループなのだろう。大変な救いを彼らから得て、音楽の領域でも、“人を救う”ということが可能であると覚醒させられた。

 

モナリザやIl Divo以外にももちろん救いを与えてくれる作品や音楽家は存在する。“人の救い”という単なるハッピネスの追求より深い何かを与えてくれる音楽群、作品群を今後も探し続けていくつもりだ。