七戸ときどきラスベガス

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徒然なるままに…危険思想

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筆者には、敗戦後敵国に嫁いだ伯母がいる、と以前のブログで述べたことがある。

 

伯母は、米国の中でも人種差別のひどいテキサスに嫁ぎ、嫁いびりと人種差別のダブル攻撃で、途中何度か帰国していたことを後になって聞いた。“途中帰国”とは名ばかり。心の中では、夫との結婚生活に見切りをつけ、東京に帰国していたのである。

 

聞くところによれば、彼女は赤坂や六本木(当時は六本木という地名があったのかどうか知らないが)で財界人たちを相手にホステスとして働いていた。政治家や、文豪、実業家たちとの交流のもと、彼女の連れ子、私の“また従姉妹”は、夜の世界に生きる母親のそばで、見知らぬ日本という地で、日本語を学びながら日本の生活に馴染もうとしていた。

 

もちろん学校に通っても、日本語でお友達と交流できるわけではないし、授業を聞いてもちんぷんかんぷんだったはずだ。そんな彼女に日本語を、そして学校の勉強を教えていったのが、伯母の顧客であった某小説家であった。

 

おそらく、小説家でもあり、外国文学の翻訳者でもあったその小説家は、私の“また従姉妹”から英語を教わっていたようだ。お互いに、自分の母国語を教え合って交流していたことが、今でも、“流暢な日本語”が理解できている“また従姉妹”のスキルとなっている。

 

一年もしないうち、米国に住む夫が妻と娘を迎えにやってきた。「どうしても結婚生活を続けていきたい。僕に再度チャンスをくれ」との懇願で、伯母は再度、人種差別のひどいテキサスに娘を連れて戻って行った。

 

その文豪は、ある事件をきっかけに命を落としたが、私の当時小学生だった“また従姉妹”に啓発されて、独自に英語も学んでいたのだろう、と残された音源付き映像の彼のスピーチを聞いて納得する。

 

今日手に取った文藝春秋を立ち読みして、ふと思い出したことである。