9月23日祝日。この日は千葉県成田市にあるイオンモールで、子供向けイベントの司会を担当させていただきました。
前日の夜に中野のマンションに泊まり、朝早く出てきました。イベントが終わり次第、笛吹市に戻ります。
空き時間にちゃっかりイオンカードに申しこみもしました(笑)
9月23日まで、私は呑気な人間でした。やっと笛吹市の住まいも落ち着いたので、10月からは母の病院の付き添いを再開し、コロナ以来ずっと行けていなかった兵庫県黒井にある母方のお墓参りもしようと計画していたんです。
9月24日の午前中。出勤する夫を送り出し、炊事洗濯を済ませ、笛吹市の住まいでのんびり過ごしていました。
10時前だったと思います。スマホに着信がありました。市外局番が群馬県高崎市を表示していました。
出てみると、国立の高崎総合医療センターからでした。母がゴルフ場で意識不明で倒れ、
救急搬送されたという内容でした。
『何時に到着できますか?』と聞かれても、咄嗟に答えられませんでした。重体ということは理解できても「夫に確認を取って、それから向かいます。15時くらいになると思います」と答えるのが精一杯でした。
夫に連絡をすると幸いすぐ応答してくれました。事情を伝え、財布にスマホ、ノートPC、着替え数点と化粧品を詰め込み、石和温泉駅から電車に飛び乗りました。
あいにく特急がつかまらず、高尾駅まで各駅で移動し、高尾駅から中央線の特快で東京駅へ。東京駅から新幹線に乗りました。
高崎駅で義弟(妹の夫)と落ちあい、タクシーで病院へ急ぎました。
母はゴルフ場で39分間、心肺停止状態だったそうです。そのため私より先に藤沢市から移動した妹が到着した時には、医師から看取り宣言をされるところでした。
が、私が到着する直前にその状態を脱し、看取りは回避されました。
何が起こったのかわからず、ただ泣き崩れてしまいました。泣き叫ぶことしかできなかったです。
父はゴルフ場から救急車に乗ったため、車を榛名町のゴルフ場に置きっぱなしでしたが、義弟が取ってきてくれました。
翌日25日の面会では自発呼吸が少し戻ったとのことでした。奇跡が起こるかも・・と期待しました。
しかし、その翌日26日に再び医師に呼ばれ、CT画像を見たところ、脳の状態は24日より悪化しておりました。正常な脳には皺がたくさんあるのですが、それがなくなっていました。今後、意識が戻る可能性は完全に消え、死刑宣告されたような気持でした。
今後の治療方針を週明けまでに決めてほしいと医師から言われました。
父・弟・妹と相談し、栄養を鼻から入れたり、のどを切開する延命治療はしないということに決めました。
本日10月1日、正式に医師に伝えました。
私は24日からずっと高崎の実家に泊まり込んでおります。
9月24日から毎日泣き通しでブログの更新なんて考えられませんでした。
でも、辛くても記録を残そうと思いました。