「⚪⚪さん
 亡くなられたって
 あんた知っとったけ?」

「なあん。
 あたしも今朝の新聞見て
 びっくりしたがいぜ。」

「やっぱりけ。
 同級生やもんにね。
 最期に顔見たかったと思わんけ?」

「そやわいにね。
 終わってもーてから
 知らされるちゃ
 淋しいもんやいにね。
 
 なんとか
 香典だけ届けにいかんなんね。」


「そやね。
 ⚪⚪さんと⚪⚪さんにも
 声かけてまとめて持っていくけ?」


「あーそやね。
 ほったらあんた連絡してくれっけ?」



先日
仕事で訪れた式場で聞こえてきた
お参りのご婦人方二人の会話。


こんな感じの話が
どこかしこから
聞こえてくるようになった昨今。

会いたかったね。
寂しいね。

そんな言葉が
行き交うのに
どうにも止まらない流れがある。




新聞のお悔やみ欄に載せられる
【葬儀は終了しました】

という報告。




こんなん
いつから始まったんだっけな?


少なくとも
10年前には
ほとんど見なかったと
想うのだけれど。



最近は
お悔やみ欄の三分の一が
この報告だってことも
珍しくない。


家族だけで
葬儀を終える。

んでもって
亡くなったんだという
事実だけを
新聞のお悔やみ欄を通して知らせる。


なんの為にするんだろう?


どうにも意味がわからない。



亡くなったので
そう認識しといて下さいってこと?💧



いずれにせよ
見ちゃったら
あーそうなんだ。では
終わらせられないのに。


冒頭のご婦人方の会話のように
何とか香典だけは
届けなきゃって思う人は
ごまんといる訳で。


それさえ
要りません‼
引っ込めて下さい‼

って言うのかなぁ?



人って
ホント色んな繋がりをもって
生きてくるんだよ。

家族の全く知らない繋がりを
持っていて当たり前で。


自分の親の
友人知人を全て漏れなく
羅列出来る子どももいないし

パートナーの
外の顔を知り尽くしている
人もいないんだと思うんだ。


その知らない繋がりの中には
最期に顔を見て
「ありがとう」を
「さようなら」を
ちゃんと伝えたい人が
いたりするんだ。


冒頭のご婦人方のように。


会えなかったことを
淋しいねって
想う人がいたりするんだ。


そんな人たちの為に
お別れをする機会を作ること。

それが
葬儀をする大切な意味の1つ。



終わっちゃってから
終わりましたの報告をするなら
いっそのこと
何にも知らせなくてもよくない??


…と私は思う。




ムダに惑う人を
作るだけ。



カタチなんか
変えたってかまわない。


でも。


最期のお別れの場を
無くしてしまうのは違う。



亡くなったことを
知らせたいなら


ちゃんとお別れの場を
用意しようよ。


それは
どんなに時代が変わったって
残された人の務めなんだよ。



私はそう思う。
強く強く
そう思う。