写真を撮るという行為に躊躇した。
いや、正確には写真を撮っているところを見られることに、
気を使っていたのかもしれない。
あまり多くの人に出会ったわけではないが、
瓦礫を運ぶダンプや、家屋を解体している重機、警備員、
9月当時、かなり減っていたとは思われるが、
作業をしている人たちに写真を撮っているところを見られることが、
後ろめたかった。
もっと正確に言うと、あまりに甚大で広範囲の被害を目の当たりにして、
打ちのめされていた。
元々、この目で確かめたくて一人で車で出掛けた旅で、
記録に残すという大切なことは後回しにされ、
結果、自分の"無力”を痛感した。
放射能で汚染された山と、
津波に破壊された海沿いの町で、
雨と風の中で、
ただ立っているだけ、
聞こえないはずの声に耳を澄ましていた。
物事の見方は見る角度によって変わってくる。
答えはひとつじゃないことも多い。
ひとつの”言葉”や”場所”も、
誰かにとっては楽しかったり、誰かにとっては悲しかったり。
誰かにとっては大切で、誰かにとっては興味もなかったり。
そんなことで人は簡単に傷ついたりする。
そして、誰かにとっては過去のことも、誰かにとっては現在進行形だったり・・
被災地を訪れた人たちのモラルは問われ、
震災を象徴する建物や漂流物の撤去にも正反対の意見に分かれる。
物事は簡単じゃない。
”河北新報”↓
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20120518_04.htm
焦点/「震災遺構」保存か否か/遺族ら解けぬ難題
|
◎石巻 大川小校舎/観光地化やるせない
児童、教職員84人が死亡、行方不明になった石巻市大川小。校舎を保存するか、撤去するか、議論はまだ始まっていない。校舎の今後をめぐり、遺族の意見は分かれる。
子ども2人を亡くした母親(42)はことし3月下旬、校舎前で笑顔で写真を撮る高齢者のグループに遭遇し、思わず顔をそむけた。
「ああいう人たちは少数。子どもたちを思って来てくれる人がほとんどのはず」。何度も自分に言い聞かせたが、やるせなさは消えなかった。「ここは観光地になってしまった。早く校舎を解体してほしい」
震災当日の避難行動の検証を求める親たちからは、保存を望む声が上がる。一人娘を亡くした父親(37)は「校舎がなくなって、大川小の被害が忘れられてしまうのが怖い。校舎全てが無理だとしても、一部は残してほしい」と訴える。
震災後、説明や検証など市教委の一連の対応に不満を抱く遺族は少なくない。市教委の担当者は「遺族を刺激したくなかった。ほかの仕事にも追われ(校舎保存の是非を)議論できずに時間がたってしまった」と漏らす。
校舎のそばの祭壇には平日や週末を問わず、手を合わせるために多くの人が訪れる。一方、鉄筋コンクリートの校舎は、津波の衝撃でひびが入り、壁や天井には崩れそうな箇所も目立つ。
震災の記憶を風化させないため、市は保存できる建物のリストアップを進め、市民からも候補を募っている。市民代表でつくる「市震災復興推進会議」で各建物の保存の是非について意見を聞くなどし、最終判断する。大川小を含めるかどうかはこれからの議論だ。
市復興政策課は「多数決では決められない問題であり、住民感情に配慮して、慎重に対応したい」と話す。
◎名取・閖上 佐々直本店工場/社長「復興まで残す」
がれきが撤去され、更地が広がる名取市閖上地区。日和山の50メートルほど南に、2階建ての工場が被災当時の姿でたたずむ。屋上には赤地に白文字の看板が残る。
「かまぼこ佐々直」
閖上地区発祥の笹かまぼこ製造元で、創業は1916年。東日本大震災で、3工場のうち2工場が流失した。形を残した唯一の建物が日和山そばのこの本店だった。
閖上地区では震災直後から、被災した住宅や工場などを名取市が無償で撤去した。申請期間を過ぎれば、自費撤去の可能性も出る。佐々直の社内でも議論になった。
「本店は閖上に戻る気概を示すよりどころだ。復興事業で撤去が必要になるまでは残そう」。3代目社長の佐々木直哉さん(65)の一言で、保存が決まった。
市の津波被害建物の撤去事業は昨年末に終了。一面更地となった閖上地区で、佐々直の本店は震災の被害を伝える数少ない場所になった。地元の人からは「看板が閖上の目印になる」と言われるという。
市は、閖上地区で土地区画整理事業による現地再建を計画する。佐々直本店のある土地約1320平方メートルは復興計画の観光産業ゾーンにあり、事業が進めば別の場所に換地される見通し。今のところ、震災遺構として本店の保存を後押しする動きはない。
「本店は、いずれ取り壊さねばならないだろう。だが、津波の被害を伝える建物などは後世に残すべきだ。そうしないと、また震災のことが忘れられてしまう」と佐々木さんは主張する。

