生かされている自分 #3 | 広島県福山市 ココロとカラダのお悩み解決 ありのままのあなたになる幸せ

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原文そのままを個人的に保存していたものを転載しております。
以下転載

この様な視点からとらえてみ て先ず言えることは、自分という存在は宇宙というマクロの世界から見るとまさしく点(数学的には位置だけあって面積が無い)に過ぎない存在であり、宇宙空 間に存在する様々な天体と同じ様に目に見えない偉大な力によって支配されている存在であるということです。 

その偉大な力を神と呼ぶことに問題があるなら、以後「自然の摂理」とでも呼ぶことにしましょう。 
つまり、自然の摂理によって生かされているということです。 
その証拠に、今私たちが住んでいる地球は太陽の一惑星ですが、その太陽にも寿命があり、いずれかは段々膨張して赤い巨星となり地球を呑み込んで最後は大爆発を起こしてしまう運命にあるといわれているのです。 

そうなることはまさしく自然の摂理であり、その時一人自分だけが生き残ろうと思ってもどうすることも出来ない。 
もちろん、そんな事は今の私たちには絶対といって良いほどの確率で起こることは無い。 
しかし、このまま人類が地球上に在り続けるとして、いつかは私達の子孫がそうした時に遭遇しなければならないということは間違いありません。

また、もっと身近なことでは天変地異が在ります。 
かって私達は地球の大地は揺るぎないものと思い込んでいました。ところが、その大地がいくつかのブロックに別れており(プレート)、それぞれがマントル対流と称し海中に在る海嶺よりせり上がり海溝に沈み込んでいくといった活動をしている。 
そして驚くことに何億年の間に大陸の形まで変えてしまっている。身近な例では、伊豆半島が太平洋を移動して本州に突き当たり、その歪が原因で日本アルプスや富士山が出来たという話。 
また遠くはインドが同じ様に海を移動し大陸に突き当たり、その時の歪でヒマラヤ山脈が出来たという話。すべて嘘のような本当の話です。 

このように、私達が身の置きどころにしている母なる大地でさえも例外なく「自然の摂理」によって動いている(動かされている)。 

すなわち、それらに大きく依存している私達は、まさしく「生かされている存在であるということは間違いの無い事実であると言えます。 
もちろん私達には自分の意思が在り、自分の力で生きているという事実も否定できません。 
しかし、それはあくまでも極めて限定された時間と空間の範囲内でのことなのであり、その空間や時間も宇宙という大きな枠組から決して独立したものではなく、やはり自然の摂理の手の内に在るのです。 

中国の明代に書かれた、有名 な「西遊記」において孫悟空がお釈迦様の手のひらから逃れることが出来るかどうか競いあった時、きんと雲で最果て迄つっぱしり、ここまで来ればもう大丈夫 だろうと思った時、突然お釈迦様の指がその先に現れ降参したという話は、この事をよく比喩しています。 


生命の尊厳と平等 

これらのことから、この地球上に生きとし生けるものすべてが生かされているという点において、全く平等な存在であり、決して人間だけが偉大なのではなく、その生命の尊厳は等しく平等なのです。 
言い換えればそれぞれの役割りを担って生かされているだけに過ぎないのです。 

例えば、動物や植物が人間に食料として利用されていたとしても、それは本来の役割を果しているだけであり、それが人間の絶対的な優位を示すものではないのだということです。 
その証拠に、動物や植物のすべてが絶滅したとしたら人間は生きていくことができないのは明らかです。 

この様に「自然の摂理」の元にすべてが共存しているのであって、これらは決して人間の一方的な従属物ではないのであり、レジャーとかスポーツと称して、必要も無いのにむやみな殺生をすることなどもってのほかであるといえます。 

こうした観点からすると、現在の文明がいかに人間の独善的な思い上がりによって成り立っているかということがはっきりと見えて来ると共に、政治・経済・科学・宗教・教育・人生等その他あらゆる分野において、そのあるべき理想の姿が導き出されてくるのです。 
このあたりは長くなりますので後に述べる事とします。 


強い存在としての自分 

さて話を元に戻します。人間の存在は自然の摂理により生かされているまことに弱い存在であり、決して地球の征服者ではないのだということを述べましたが、その反面、誠に強い存在であるということもいえるのです。 

なぜなら、如何に微小な存在であろうと人間も宇宙を構成する一要素であり、宇宙全体を動かしている「自然の摂理」がこの小さな肉体にも内在しているといえるからです。 

それは、人間の肉体が「神秘の小宇宙」などと表現される様に、宇宙そのものであるというところから証明できます。 
例えば、特定の精子が卵子に頭を突っ込み受精すると卵子は細胞分裂を繰り返し成長していきますが、その時点で既に精子の頭部に含む染色体により個性が形成されつつあるのです。 
その個性は染色体の中のDNA(デ オキシリボ核酸)という螺旋状をした構造の遺伝子に組み込まれており、RNA(リボ核酸)よって運搬され個々の細胞に余すことなく伝えられていき、その情 報によって細胞が増殖し、それぞれの役割を持った諸器官が形成され、特定の個性を持った人体が形成されていくという事実、これだけを取り上げてみてもとて も人間業の及ぶところでは無い、まさに「自然の摂理」によるものなのです。 

この他にも、様々な興味深い神秘的な事実が無限に内在しているのが私たちの肉体なのです。 
残念ながら、ここでも私の専門知識が乏しい為、具体的な説明はうまく出来ませんが、この辺りは以前NHKに於て放映された「驚異の小宇宙・人体」という番組においてよく説明されていますのでレンタルビデオでも見て頂くとよく理解できるものと確信します。 

いずれにしても、私たちが脳 味噌で意識するしないに関わらず、心臓は脈打ち続け、血液が身体中をかけめぐっているし、その他の内臓諸器官もそれぞれの役割を果し続けていることは確か なことであり、それは脳が眠っている状態であっても人間が生き続けている事からも明らかです。 

つまり、人間の脳味噌で考える思考を超越した部分で私たちの肉体は存在し続けているという事なのであり、言い替えれば「自然の摂理」がこの肉体に内在しており、この肉体は「自然の摂理」そのもの、すなわち宇宙そのものであるという事なのです。 
もっとうがった見方をすれば人間は神(自然の摂理)そのものであるとも言えるのです。 

このように、人間は「自然の 摂理」によって生かされている誠に弱い存在であると同時に、その偉大な「自然の摂理」そのものであり、五感に制約された(仏教的な言い方をすれば現世の煩 悩にとらわれた)脳味噌の思考にとらわれる事なく、あくまでも自然に、あるがままに、自由に在り続ける事ができたなら、五感によって得られる情報を最大限 に正しく生かす事が出来ると共に、神に等しい強大な力を持つ存在となり得るのです。 

古来、そうした超人的な力を我が物にしようと様々な手段が用いられてきました。 
一部の宗教もしかりです。 
しかし、私に言わせれば「我 が物」にしようと考えた時点で、もう「自然の摂理」の道から外れてしまっているという事であり、第一に「自然の摂理」の例え一部でも知り得たならば、それ を人間だけの独善的な目先の利益のために利用しようとするのでは無く、その摂理に従おうと努力をし続ける事が大切なのだと考えます。 

そして、第二にその努力の過程に於て、自分という存在が神に等しい存在であるという強い認識と信頼の元に、全身全霊を打ち込んでいく姿勢が大切だと思うのです。 
そうした過程で人間の思いもよらない力が必然的に自然発生的に授けられるのだと思います。 
決して求めるのでは無く、与えられるのです。利用するのでは無く、従うのです。 
「火事場の馬鹿力」という諺は、見方を変えれば忘我の境地で(脳味噌によって意識する暇も無く、あるが侭の状態で自然の摂理の元に身をゆだねて)事にあたれば、思いもよらぬ力を出すことが出来るといった意味にも解釈出来るのです。 


生かされるまま生きる 

長々と、独断と偏見に満ち満ちた戯言を述べて参りましたが、更に続けさせて頂くと、結局宇宙は人間が地球上に原種の一個の生命体として誕生する以前から存在しているのであり、その中で私達は自分の意識を超越した偉大な力により、まさしく無から誕生し進化を遂げてきた。 

そして次々と生まれ、与えられた生を全うし次々と死んでいく。 
私たちの肉体が朽ち果てた後も宇宙は悠久の時間を刻み続けていく。 

つまり、私達人間は生命の誕 生の秘密を知らなくても、又死後の世界を知らなくても、宇宙が続く限りどこかで在り続けていく事だろうし、在るが侭に、生かされるままに、眼前に迫り来る 瞬間瞬間を精一杯真正面から消化していくしか道は無く、そうする事の結果として、もし死後の世界が在るとするなら、ふさわしいところに行けるだろうし、輪 廻転生とか称して生まれ変る事が在るとするなら、ふさわしいところに生まれ変るだろう。 

要は「生かされるままに生きる」「在るがままに在り続ける」という一見極めて簡単な事が大変重要な事であり、又それは私達にとって選択する余地の無い険しくも尊い道で在ると言えるのです。 

こんな事を言うとそれこそ変人、奇人扱いされかねませんが「自然の摂理」を「神」と置き換えて言うと、宇宙が神なら、人間も神、植物も神、動物も神、水も空気も神、路傍の石ころも神、ことごとく神なのです。 

もっと角度を変えれば、幸福も不幸も喜びも悲しみも苦しみも楽しみもすべて神の思し召しなのであり、なんぴとたりとも逃れる事は出来ない。 
真正面から取り組んでこそ次の在るべき道が開けてくるのだと思います。 

もし、死が恐ろしいと思う人が在れば、精一杯恐ろしがればよい。 

逃げてはいけない。 

死を超越するには、死に真正面から取り組み、その中から道が見付かるはずです。 
又、もし生きるのが恐ろしいという人がいるなら、精一杯恐ろしい思いをすればよい。 

逃げてはいけない。生を全うするには、生に真正面から取り組むしかない。 
その中から必ず道が開けるはずです。 

死が恐ろしいため自殺してしまう。 
生きるのが恐ろしいために自殺してしまう。 
世の中にはまま在る話ですが、これは真正面から取り組むことなく、身勝手な自分の意志により、「天寿を全うする」という「自然の摂理」から逃れてしまった、脱落してしまったという事であり、それこそ、その先には恐ろしい世界が開けているのかも知れないのです。