西郷は明治維新を成功させた第一の功労者という評価、つまり270年近く続いた徳川幕府を倒して、近代国家の礎を築いたというのが西郷の評価でしょう。でもよく考えると。戊辰戦争の初戦で有る鳥羽伏見の戦いにおいて、幕府軍が思いもよらぬ敗戦、それを聞いた大阪に出張っていた徳川慶喜は翌早朝重臣を連れて大阪から、江戸へ逃げ帰り、江戸城で謹慎してしまった。

 

①そういう中での江戸城総攻撃、「西郷と勝海舟との薩摩屋敷での会談」により、江戸の町は火の海になるのを逃れたと歴史ではなっておりますが、日本の戦いにおいては相手の大将の首を取れば勝負ありですよね。徳川幕府軍の総大将の徳川慶喜は最初から戦う意思を示さなかった。つまり、ボクシングでいえば、慶喜はリングに登場しない、これでは戦いにすらならない。最初から勝負ありです。つまり江戸城に籠城するでもなく、負けを認めて戦場に姿を現さないのですから、幕府軍の軍隊は戦いようもないここが江戸城総攻撃の真実ですよ。

 

②国民の大部分が知っているのに、ここが無視されて「西郷と勝の会談で江戸城総攻撃が止まった」などと教えている。初めから「降参します。戦いません」という相手に戦いは成立しません。だから江戸の町での戦いなど起こりません。徳川軍の総大将の慶喜が戦わぬと言っているから、フランスの指導で最新の軍備を備えた幕府軍は戦いたくとも戦えない。だから幕府軍は北海道の函館五稜郭を最後の決戦地として移動した。江戸では戦いたくても戦えない。函館なら慶喜と関係なく戦える。これが幕府軍の考えだった。

 

③これに対し、政府軍は西郷は函館まで追っかけて白黒をつける必要は無かった。江戸に新政府を開けば良いのであって、原則そこには幕府軍は攻めてこれない。何も徹底的に幕府軍を全滅させる必要は無かったのです。だから、西郷のこの行動にも疑問が残るのです。

西郷は50歳前後で亡くなっておりますが、徳川慶喜は80歳過ぎまで長生きして、貴族院議員もやった人。そして後年、慶喜の部下だった人の回顧録では慶喜は「私は死ぬまで、西郷を許さない」と事あるごとに言っていたとの話があります。ここから考えられることは、江戸城無血開城の西郷と勝の話の中身は、「江戸の総攻撃は中止する」は簡単に決まったことで有りましょう、相手が戦わないと言っているのですから。

この会談の大事な所は、慶喜の『日本国の№1を天皇、№2は慶喜、それに薩摩や長州の西郷や大久保たちと徳川幕府の重臣で構成する新政府を作ろう』という提案の検討に時間を要したということです。『慶喜を明治政府の要職に付ける』という慶喜側の提案の検討に時間が掛かったというのが真実だったと思われます。その後、勝は「西郷より、色よい返事をもらった」と慶喜に報告し慶喜を喜ばせた。しかし西郷も大久保もこの提案を無視し、慶喜を新政府の要職に付けなかったのは皆さまご存知の通り。だから、慶喜はあのような発言をしたのです。

 

④日本の教育は『明治維新のことを無条件に良いことだ』と教える。

250年も鎖国をしていた旧態依然の徳川幕府の政治を終わらせて開国、いわゆる近代国家への道を開いた政権交代である明治維新は無条件に良いことだと教えた。

〇その明治維新は調所の財政立て直しによるお金が無ければ成功しなかった。「調所が貯めたお金が無ければ明治維新は成功しなかった」などと学校では絶対教えない、これで日本の教育は正しいのでしょうか?

〇しかもその立て直し政策には奄美や徳之島の人々の犠牲、密貿易の利益という非難されるべき行為があっての、立て直し政策の成功であった。

〇一方調所は、借金踏み倒し策ばかりでなく、それに続く薩摩藩の財政と経済の建て直しにも成功している。借金体質の改善に注力する一方、甲突川五石橋建設など長期的にプラスと判断したものには積極的に財政支出を行い、殖産や農業改革も実施。専売化した黒糖のみで、230万両超の利益を出したり。並行して、高島流砲術採用など軍制改革にも成功している。また苗代川地区(現在の日置市東市来町美山)では、調所が同地の薩摩焼の増産と朝鮮人陶工の生活改善に尽くしたことから、同地域では調所の死後もその恩義を感じて調所の招魂墓が建てられて、密かに祀られ続けていたという。

 

⑤つまり調所はこういう良いこともやっているのです。しかし、悪い奴と烙印を押された調所のこういう良いことの評価はほとんどありません。だから「調所がひどいこと・悪いことをして貯めたお金のおかげで明治維新は成功したのです」というような教育は日本では絶対にしない。

〇徳川慶喜は明治維新の前年に大政奉還(政権を天皇に返還)をしています。これで鎌倉時代から続いた武家政権が天皇政権へと戻ったのです。そのうえで「700年も政権から離れていた天皇を手助けするために、慶喜をはじめ徳川の重臣たち(270年の長きに渡り政権を担ってきた徳川家の歴史と実績と経験)と新政府軍の薩摩や長州の人間を含めた新政府を作って、合議制で新しい日本を作ろうではないか」と提案していますよ。慶喜は、「これからも鎖国を続け、徳川の世が続くのだ」などとは主張していない。・・・慶喜のこういう考えは間違っているとは思えない。

 

⑥最終的に、西郷や大久保たちは「政権を担当したことも無い集団」で新政府を構成することを選んだ。この判断は正しかったのでしょうか。

我々は自民党政権が社会党政権に代わった経験も、民主党が政権を獲った時代のことも知っていますよね。そしてその政権が短命に終わったこと又、知っていますよね。つまり実務経験が無いから、政府の機能がスムーズに回らないから、短期政権で終わってしまったということを。

そう考えると、明治維新においては慶喜の考え方が一番正しかったのかも知れませんよ、そういう風に教育して、「ここから先は貴方自身で誰の考え方が一番正しいかを考えなさい」という問題や宿題を出す。これに対して生徒一人一人が『自分の考えをレポート提出する』。そういう教育をしなければ、これからの日本人は世界で通用しなくなる。 薩摩わがまま親父 8月10日