「私」という存在
「お前は自尊心が強すぎるんだよ」
と言われてふられた事がある。
そのときは「自尊心」って何のことかわからなかった。
正直、今も良くわからない。
強いからいけないのか、弱いといいのか。はてまた、そんなもの無くしてしまえばいいのか。
それ以降、機会があれば、「私」というものにつて考えるようになった。
社会人になってからと言うもの、周囲との距離をどのようにとるか、敏感になった。
今の自分の立ち位置は。人が私に何を求めているか、なんとなくわかるので、そのように振舞うと喜ばれた。
それが大人になったと言うことなのかもしれないけれど、なんとなく、違和感を感じていた。
「なんだか、自分らしくないなあ。」と思うことはあっても、その「自分らしい」ということを忘れかけていたような気がする。
そんな気持ちで迎えた2006年。
なぜか、正月に雪山でピキンとひらめいた言葉があった。
それは『野生』というキーワード。
手帳に書いた。
『野生のカンを鍛える』と。
何か悩んだとき、道が二つに分かれていてどちらかに決め無くてはいけないとき。
そんな時は「野生のカン」で決めようと思った。
ということは、その「カン」が鈍らないように、「野生」に「本能」に正直になろうと、決心した。
今年は変化の年だった。いろいろなことがあったが全て「野生のカン」に従ってジャッジした。
どっちが特かとか、損かとか、一切考えず、野生のカンが導くほうへ体を動かしていくようにした。
野生のカンを研ぎ澄ましていると、なんだか毎日ひらめきがある。
それも音を立ててやってくる。本の中の文字が私の目の中に飛び込んでくる。
毎日の感動を、人に伝えたり、こうして文字に残さなくては気がすまなくなった。
そんな中、たまたま茂木健一郎さんが司会のNHKの番組「ザ・プロフェッショナル」を見た。
茂木さんは脳科学者。そんな茂木さんの一言が私の心に刺さった。
「脳は感動すると誰かに伝えたくなる働きがある。太古の昔からそう。この土地に米を植えると芽が出てきたよー。とか、
あっちの森にいのししがたくさんいるらしいよー。とか、感動という脳の動きは、人に伝えたくなるようにプログラミングされているんですよ。」
確か、そんなようなことを言っていた。
すかさず、手帳にメモした。
そんな中、たまたま茂木健一郎さんのブログをのぞいたら、芸大で芸術解剖学という授業をやっていて、ゲストが森村泰昌三田と書いてある。
森村さんはセルフポートレート写真アートをとっている人。三島とか、ゴッホとかに扮した森村さんの写真を見たことある人はすぐ判ると思う。なんだか面白そう。
誰でも聴講可能だと。
たまたま暇だったので、上野の森に遠征だ。
初めての東京藝術大学。なかなかアートな雰囲気を漂わせている。
って、当たり前か。女の子が多い。かわいいのだけど、どこかほやっとしてる感じだ。
男の子はなんだかフェミニンでひげとか薄い感じ。下駄を履いたバンカラ学生をイメージしてたんだけどな。
ちょっと残念。
5分くらい遅れて教室に。だって、芸大って、キャンパスの中、わかりにくいんだもん!
100人くらい入る教室は、9割方埋まっている。盛況だ。ホワイトボードを見ると、ひとこと。
『私』と、書いてあった。
私らしいとは、なんだ。一体、「私」って、何なんだ。
森村さんは言っていた。
人間って、神様が作った出来損ないなんじゃないかと。
なぜなら、自己を持ってしまったからだ。
自然の世界には、自己を持つ生物がいるだろうかと。
カマキリはメスに食べられるときに人権を主張するかと。
働き蜂は働くことに意義を唱えるかと。
人間だけ、本来自然の世界に無い自我というものがある。
それは、コンピュータにおける不具合みたいなものなのではないか。と。
生きると言うことの答えは簡単だ。と。意味は無いと。
例えば、夕陽は美しい。それが答え、人生の意味だとしよう。
当たり前のこと。そこに行き着く過程が人生なのではないかと。
誰と見るか、とか、長い森を抜けた後に開けた台地が出てきて、そこに夕陽があるとか。
一日中山に登っていて、やっと山小屋について、今歩いてきた道を振り返るときに夕陽がさしているとか。
結論は単純だけど、回り道に意味をつけることが人生の感動ではないかと、
そんな話をしてくれた。
なるほどなーって思った。
「私」という存在はそこにあるだけで、私で、泣いたり、笑ったり、悩んだり、
近道したり、遠回りしたり、それでいいんだなー。なんて考えた。
そして、「私」という存在は相対的なものであるのだと。「私らしい」というのは人から見た評価なのかもしれないなあと、ぼんやりと考えた。
今年のテーマは「野生」であるけど、実はこれ、無理をしないということと同義語だ。
他人から見て無理をしていない、作っていない自分を見せる。
他人が一緒にいて無理をしない、作らないでもいい私でいる。
それがこの「野生」の意味なのかもしれないなあと思った。
なんだか、ふわっと、心が軽くなった。
帰り道、ダリ展を通りかかって、くすっと笑っちゃった。
「私はダリでしょう」
ってさ。