さてさて、島原城に引き続いて、本日は『平戸城』に行きました。
その平戸城ですが、まずは源平の時代から勢力を誇った松浦党の一族である松浦家二十六代鎮信(しげのぶ)が、1599年(慶長4年)に現在の平戸城がある場所に「日の岳城」の築城を開始しましたが、豊臣家との関係を疑われ、その疑いを晴らすために完成間近の1613年(慶長18年)に焼き払ってしまいました。それから約90後の1702年(元禄15年)に、三十代棟(たかし)が再建の許可を幕府に願い出て、2年後に着工。1718年(享保3年)に14年の歳月を経て平戸城が完成しています。
平戸城の築城にあたっては、山鹿素行(やまがそこう)の子・義昌の指導を受けたとされ、平戸港に突き出した亀岡山の地形を活かした「山鹿流」の築城術がふんだんに見て取れることができます。
現在は、現存する狸櫓や北虎口門のほか、復興された櫓や模擬天守等が建っています。
平戸観光協会などがある外郭跡の駐車場に到着。復興された天守閣(模擬)が聳えています。
駐車場にある平戸城の案内板。城跡は、現在、亀岡公園として整備されています。
“P5”の駐車場のところから登城します。
北虎口門は、1707年(宝永4年)の完成だそうです。平戸城に残る数少ない現存の遺構です。
案内板には、古地図と現在の地形図があります。当時と現在の比較ができていいですね。
北虎口門の横にある階段を上がり狸櫓へ。この狸櫓も貴重な現存建物です。
櫓を修理するため床板を剥いだところ、床下に住む狸がこれからもここに住まわせてもらえれば、城を永久に守ると藩主に言ったという伝説から、狸櫓と呼ばれるようになったそうです。
なお、この案内板に“狸櫓由来記”とある割には、その由来自体は書かれていないという・・・。
狸櫓の内部には、平戸城の門や櫓等の説明パネルが展示してありました。天井の梁や柱など、築城当時を偲ばせます。
狸櫓から本丸に続く道には、平戸城の見所の一つである“石垣狭間”が残っています。
当時は土塀にも狭間が開けられていたそうでして、「二重の狭間」というそうです。これぞ山鹿流の築城術!
これらの“石垣狭間”。よく見ると、ちゃんと縦長や三角形になっています。
こちらは縦長なので弓矢用かな?
また、ここからは北虎口門、その向こうに地蔵坂櫓がよく見えます。
左手に曲がる立派な枡形になっています。
枡形内をしばし散策。
枡形から見上げる天守。
天守閣に到着です。この天守閣は、昭和37年に建てられた模擬天守で、元来、この場所には「沖見櫓」がありました。
北側から見た天守閣。
天守閣の中に入ると石垣があります。これが本来の沖見櫓の石垣でしょう。現在の天守閣は、かなりはみ出して造られていることがわかります。
天守閣内の展示。平戸城の復元模型がありました。
こちらは鯱鉾。
北虎口門で実際に使われていた門扉もありました。
最上階に着きました。
天守最上階からの眺望です。ぽっかりと浮かんでいる島は黒子島で、国の天然記念物だそうです。
西方向。平戸港が見渡せます。
こちらは東方向。左手に見秦櫓、右手に懐柔櫓、その奥には平戸大橋が見えます。
見秦櫓。
懐柔櫓。
さて、天守閣を後にし、最上階から見えた見秦櫓に向かいます。当時は、天守閣がある段から見秦に直接行くことはできなかったようです。
天守閣がある段を取り巻く石垣と土塀。
見秦櫓があるの石垣と土塀。
見秦櫓です。天守閣から見るより小さく見える?
見秦櫓側から見た天守閣。右手にあるのは休憩所です。
次は地蔵坂櫓に行きましょう。一旦、北虎口門まで戻ります。
地蔵坂櫓を見ながら北虎口門を通り過ぎ、
下を見ると、井戸がありました(入場券販売所の裏)。
地蔵坂櫓です。
そこから少し高いところにも石積がありました。当時のものでしょうか?
地蔵坂櫓から亀岡神社の裏手を通り、懐柔櫓に向かいます。途中には、日の岳城時代の井戸が残っています。
安寿門、東櫓があった辺り。
石垣が明瞭に残っています。
懐柔櫓が見えます。手前にあるのは、市営相撲場です。
懐柔櫓。
懐柔櫓から二の丸へ。二の丸には御殿がありました。現在は、亀岡神社がたっています。
二の丸には乾櫓があります。本来、天守を持たない平戸城は、この乾櫓が天守の代用として使われていたそうです。
乾櫓の近くには、このような穴蔵のようなところかありました。平戸城の遺構なんでしょうか?
これにて平戸城散策は終了です。この他にも大手門など、見たい場所もあったのですが、時間の都合により断念しました。