アンフェアさの魅力というものを最近感じています。
もともとソフトボールをやっていて、
スポーツマンシップにのっとりフェアである事を重んじてきた私ですが・・・
スポーツマンシップにのっとりフェアである事を重んじてきた私ですが・・・
「この世の中ってフェアである事って、
いくつあるのだろうか?」と、ふと思いました。
いくつあるのだろうか?」と、ふと思いました。
そもそもフェアって何?
「愛」というものも、結構フェアではありません。
私は長女で弟がいますが、
両親から示されるそれぞれへの「愛」は
よく観察するとやはり異質のものでした。
両親から示されるそれぞれへの「愛」は
よく観察するとやはり異質のものでした。
今になって弟と話をしていて
「そんなことがあったんだ!」 とびっくりしたりします。
「そんなことがあったんだ!」 とびっくりしたりします。
しかし人間関係を形成していく 「感性」 の中で、
実はこの 「アンフェアさ」 が結構重要だったりするなと思うのです。
実はこの 「アンフェアさ」 が結構重要だったりするなと思うのです。
例えば仲のよい友人などは、
たとえ自分がクロでも 「シロだよ!大丈夫だよ!」 と言ってくれるときも
見受けられるような気がします。
たとえ自分がクロでも 「シロだよ!大丈夫だよ!」 と言ってくれるときも
見受けられるような気がします。
このアンフェアさ!(爆)
正しいかどうかは別として(笑)
「大切に思われている」 という充足感。
「大切に思われている」 という充足感。
「仲良くしたい」
という意識は、よくよく考えてみれば
「いかなるときも味方でいてほしい」
という思い、そして
「あなたの味方でいたい」
そんな思いが支えているような気がします。
つねに温かい目で見ている・・・。
私もこれまで、間違いなく沢山の方に
多めに見ていただいて生きてこられた部分があります。
多めに見ていただいて生きてこられた部分があります。
北風に心を閉ざし、太陽に心を開くように、
人は「肯定」される事を求めているのですね。
人は「肯定」される事を求めているのですね。
無条件で相手を肯定できるということは、
アンフェアな事であるかもしれません。
アンフェアな事であるかもしれません。
でも、そこが人間関係の出発点じゃないか?と思うようになりました。
そして、本当のフェアなバランスを
感じながらつかみ取っていけるのは
自分に正直になれるから。
昨日、以前理不尽と感じる事があり、
疎遠になってしまった人とバッタリ会いました。
疎遠になってしまった人とバッタリ会いました。
彼女は、娘さんの登校拒否で悩んでいました。
その時に湧きあがってきた感情は
相手になめられてもかまわない、
二人の関係を「仲良し」に戻したい・・・・でした。
二人の関係を「仲良し」に戻したい・・・・でした。
その時の自分の感情は、
相手に都合よく言いなりになる事とはまったく
別のような気がしました。
相手に都合よく言いなりになる事とはまったく
別のような気がしました。
「信じる」
「好きだから許す」
これは、最も幸福な感情の一つかもしれません!
(2008年 11月のブログ記事より)
*なんとなく気づきがあったのでリバイバル♪