家族ゲームという映画を始めて観ました。
なんだかとても
不思議な世界観で、
観ている間は
なにやらさっぱりわからなかった。
引き込まれている感じもしないし、
家庭教師役の松田優作が走れば
刑事にしか見えないし(笑)
「なんなの、コレ。」
見せてくれた友人をも
その、冷ややかな感想で不快にさせる始末(笑)
今、どうして
この映画に心開けなかったのか
何となく、わかった気がする。
それは、
私が少なからず
体験してきた時代と経験で
その辺にいつも転がっていた
風景だったから?
「家族ゲーム」「受験ゲーム」
「役割」と「ルール」
の中で深まっていく孤立。
まさに、それは「ゲーム」。
コミュニケーションとは逆の世界。
まるで、いつかきっと経験した
“自分ごと”だったんだなあって。
癒されていない自分ごと。
癒されてない過去と対面すると
感じつくしたくない感情があるために
繭が心を覆う。
大切な人と、交流できない不安や寂しさ。
交流したいがために演じる役割や献身なのに。
良くしたいためにがんばっているのに
なのに、それこそが、
触れ合いを遠ざけてしまうという
パラドックス。
きっと、そんな寂しさを
私も感じたことがあるのだと思った。
ただ、今、家族ゲームの映像が
ずっとアタマではなく体中を巡っているのは
その、寂しさや無味乾燥感や虚しさ。
それを味わうことができるようになったから
なのだと思う。
虚しさや虚無感。
その「繭」もまた、
大切な感情なのだと思えるようになったから。
喜びや、悲しみや
歓喜や、怒りや悔しさ
はっきりした感覚だけが感情ではなく
得体の知れないザワザワ感や
はたまた装う「無感覚」というのも
大切な感情なのだ。
だから、そのままに感じればOK。
なんか気持ち悪い
なんか言葉にならない
もう、それをそのまま
勇気を持って感じてあげれば
まもなく、その奥に潜む
本当に癒して欲しいものが
顔を出す。
はっと、そう思えたとき
あの、「家族ゲーム」の中で
横一列に並んだ
「向き合えない」ことを風刺するような食卓の配置や
家族のすれ違い具合も
それこそが、
とても大切で愛しいものとして
新たに自分の中に飛び込んできた。
しっかり味わえた。
どう処理していいかわからない
モヤモヤは、
それこそが大切な感情で
癒されるべきものがあると教えてくれている。
自分を守る「繭」という
一見冷たくて動かない感覚。
それ、
大切なステップなのだと感じた。
主人公の問題児の受験生に
「夕暮れを完全に把握しました」
という台詞がでてくる。
わからないことをノートに書き出せと言われ
夕暮れ夕暮れと、何度もノートに書き
「何やってんだ、オマエ」
「夕暮れを完全に把握しました」
怖い家庭教師に殴られる。
松田優作がまた怖カッコイイ♪
何度も何度も書いて
夕暮れと言う文字ももう間違えないだろう。
夕暮れと書くたびに映像が浮かんだだろう。
自分だけの夕暮れ。
その夕暮れに空き地で
主人公は、友人にいじめられたり仲直りしたり。
「夕暮れを完全に把握しました」
主人公は、家庭教師に
冗談半分、若干嫌味で
そんなことを言うのだけれど
ー印象深い言葉。
夕暮れなんて、
把握できるものじゃないのに
把握しようとする。
把握できるし、したいと思ったりする。
でも、そこが
夕暮れと把握という言葉のギャップ。
人生や目的、が、実は
そういうものなのかもしれない。
きっと、夕暮れのようなもの。
把握するために受験勉強したり
把握するためにいい会社に入ろうとしたり。
形もないのに
把握しようとしてもがき
出来たと思ったり、
また違った夕暮れをみて
驚いたり感動したり
でも、それこそが
「満喫している」ということなのかもしれない。
「家族ゲーム」「人生ゲーム」を
しっかりちゃっかり楽しんでいる。
本当は、その夕暮れを
最初から知っているのに
その夕暮れを本質で理解しているのに
今日もまた、懲りずに
夕暮れを把握しに
出かけるのである(笑)
