朝起きて、急にこの言葉が浮かんだ。
「じたばたしない」
いつもじたばたじたばたしている。私。
ところで、じたばたってそもそもなんじゃ?と思って調べてみた。
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1 手足をばたばた動かすさま。「―(と)もがき苦しむ」
2 ある状態から逃れようと慌てたり焦ったりするさま。「今ごろ―(と)したってもう遅い」
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ほうほう、なるほど。
そして、いつものように澤谷先生のブログを開いてみた。
今日は「幻想の世界とあるがままの世界(2)」として、また深遠な世界が繰り広げられている。
しかし、とてもわかりやすい。
その中に、澤谷先生が飛行機に乗っていた時の感覚が書かれていた。
「以前、錯覚を起こし、方向感覚がわからなくなり、正常な感覚が戻るまでに少し時間がかかったことがありました。その錯覚は、人生における不安と同じものだと思えました。機長にいのちは預けているのだから、ゆったりとのんびりとしていればいいのです。そんなことを思いながら、人生の機長は誰だ、などとも思っていました。」
澤谷先生のこの一文ですう~っと謎が解けた気がした。
私も以前、この(方向を見失う)感覚を持ったことがあった。
あれ?羽田に向かっているのに何でこっちに海があるのか?
もしや・・・ハイジャックされたのか。
今まさに、機長室には誰かが・・・あのスチュワーデスさんの笑顔には何となく憂いが感じられる。
一生懸命隠しているのだろうか。
娘だけは守らなければならない。海に落ちたら何メートル泳げるだろうか。
まだ冷たいよな~~~(→私の妄想はどこまでも続く・笑)
海が逆にあると思っただけで(機長さんやCAの方にとったら、当然のルートで、当たり前のことなのに)ここまでの勝手なストーリーが紡ぎだされる。
これは私だけのストーリーであって、これそのものが「自我」なのだろう。
きっと、人生に対しても私はこのような自我の傾向(不安コンプレックス)を持っているのだと言える気がした。
あるがままの世界は、きっと海が「逆」なんて概念もない。
北海道が淡路から見て東北の方向にあるというのも、淡路の「自我」からみた光景なのかもしれない。
娘は「町がおもちゃのようだ。その次は、淡路がおもちゃのようだ。そして次は雲と遊んでるようだ!」
と、娘から見た娘だけの光景を楽しんでいる。
当然、55分後には無事に羽田に到着。
それ以外、なにもない。
ただ、順調なフライトで羽田に到着しただけのことだ。
その娘と私を待っていたのは下からその飛行機を見上げ、娘との再会の瞬間だけを待ち望んでいた娘の父親。
あるがままの世界に、沢山の自我が絡み合っている。
澤谷先生はよく言うのです。
「最低限の自我は必要です。」
自我がないとドラマは生まれない。
しかし自我を認識できるという事は、あるがままの世界を、私たちは知っているのではないかと思う。
それにしても・・・まるで飛行機に乗ってしまったように、この地球に生まれた。
そして、この人生を請け負ったからにはしょうがない(笑)
飛行機は、オートパイロットが一番安定しているという。
その精密さたるや素晴らしいと、アメリカでパイロットをしている友人に聞いた。
オートパイロットを疑って、あたふたと手動にしたりまた自動にしたりしていたら、それこそ危ない。
「じたばたしない」
逃れようと慌てたり焦ったりしない。
私の人生を受け入れよう。
そして、まずは今ここを感じてみよう・・・。
そこからはじめよう。