2006年に地元上毛新聞(絹人往来)に掲載された記事です...(*^.^*)
直系6センチほどの円形に加工された「繭ぱふ」。繭は本来の白い光沢を残しながら、まったく違うモノに姿を変えている。かつて栄えた『蚕糸業の灯』を消すまいという思いが、誰も考えつかなかった発想を生み出した。
フェースパフというスキンケア商品を考案したのは富岡市宇田で繭糸商を営む「繭家」社長の小島篤さん(52)70年近く続く糸繭商の三代目である。
甲府市出身の祖父義定さんが富岡市で糸繭商を始めた当時は同業者であふれていた。父勝吉さんに受け継がれた時も年間一億粒(繭を粒数で換算して)を取り扱うほど。しかし、安価な外国産の流通が次第に国内養蚕農家の経営を圧迫した。
家業を継いだ小島さんは危機感を募らせた。北は山形県から、南は島根県まで何十社とあった繭の取引先が相次いで廃業した。「糸繭商だけではこの先ダメだ。何かほかに探さないと」。生き残りのすべてを模索し始めていた。
きっかけとなったのは、ふとした会話だった。1990年都内で行なわれたシンポジウム「絹タンパク質の新しい利用」という話を聞いた。その場で隣り合わせた男性に糸繭商をしていることを話すと、「すてきなご商売ですね、素晴らしい特性を持つ繭を取り扱っているのですから」と言われた。自分が生業としている繭が大きな可能性を秘めた素材であることに気付かされた瞬間だった。
それから毎日、図書館へ通い、本棚に列ぶ科学系文献を読みあさった。生糸がフィブロインとセリシンでできていて、繊維状タンパク質であることを始めて知った。疑問があれば全国各地の研究所、試験場を訪ね歩いて、知識を吸収して廻った。
商品化へ向け、繭を煮たり焼いたりする実験が始った。美容効果があるセリシンに目をつけ、試行錯誤を繰り返した。そしてついに繭100%でつくる美容用品にたどりついた。
中国から安価な繭が手に入る現在も国産にこだわる。消費者によりよい商品を届けたいからだ。背伸びして大量生産もしない。妻の初江さん(50)とパートさんの計3人で手作りを続ける。表面の凹凸や均一されていない型がそれを物語る。
1999年、アメリカビジネス3大ショーの一つ、ニューヨークプレミアムインセンティブショーに出品、翌年にもアメリカンマーチャンダイズショーに出展、一躍注目を浴びた。女性誌に取り上げられ、後を追うように大手化粧品メーカーが類似品を出した。「本当は逆だよね、うちみたいな小さななところが真似するのが普通..ちょっとうれしかった」と小島さん。
最近はインターネット販売のほか、都内のデパートに販路を広げ、モスクワではテレビ通販が始った。京都のお店からも商品製作を依頼されている。
「小ちゃい力だけど..繭の伝導師になっていると思う。養蚕農家の思いを伝えていかないとね。」
世界遺産登録に向けた運動が進められる旧官営富岡製糸場のお膝元。それだけに蚕糸業の衰退を危惧する。『いくら世界遺産登録しても養蚕業をなくしたら意味が無い』思いは日増しに強くなる。
この記事から6年経った現在もパートさんと3人でのものづくりは変わっておりません..。