椎野正兵衛と富岡製糸場 その4 | 繭家の人生こぼれ繭

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人にも自然素材にも優劣なんかない。『こぼれ繭』と呼ばれていたものに目をかけて、愛情を持って「カタチ」のある製品にする。そこから生まれる「やさしさ」から「人やモノ」を思いやる心が生まれるのだと思います。

志の人 椎野正兵衛


1859年横浜開港。それは日本人にとって、大きなチャンスでした。長い鎖国から解き放たれ、突如、大きな地平線が開けたのです。 誰よりもその意味を理解し、魂を揺さぶられ、時勢の先端を走り続けたのが椎野正兵衛でした。

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正兵衛は小田原で1839年に生まれ、江戸幕府の御用商人呉服商、縁戚の加太八兵衛とともに安政6年開港と同時に横浜で絹の織物商を営み、元治元年その店を譲り受けます。 
屋号を小野正、椎野正兵衛商店として本町二丁目に、<S.SHOBEY Silk store>(エス.ショーベイ.シルクストアー)という英文の看板をかかげ、英文広告を出し、 グローバルなセンスで日本で初の直貿易をするなど絹ビジネスを世界に展開、横浜を代表する大商人となっていくのです。


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ジャパンブランドの先駆け...。西洋の文化が押し寄せてきた明治維新の頃の横浜。ここから逆に海外を目指し,羽ばたいていったメイドインジャパンがありました。民間では初めて『直貿』という手段で自ら企画、デザイン、製作した絹製品を輸出し,ヨーロッパやアメリカなどに高級ブランドとして展開したS.SHOBEY。西洋人に一歩も引けを取らず『横浜スピリット』を世界に問うた人こそ,初代椎野正兵衛その人でした。高品質な絹織物に横浜らしい優美な捺染や刺繍を施し一世を風靡したS.SHOBEYは,当時としては画期的なジャパンブランドでした。



日本で最初の海外市場調査

「横浜本町に椎野正兵衛あり」と評判を上げていった彼に、大きな転機が訪れます。 其のころ明治政府は付加価値の高い製品を輸出したいと考えていました。 1873年、西洋の技術を学び市場調査を行うため、政府はウィーン万博への参加をきめました。 その際、絹製品の伝習生として抜擢されたのが、椎野正兵衛だったのです。万博の出展責任者として西洋文化を見聞し、市場調査の結果、日本文化の伝統技能と物つくりの技術で創り上げた和魂洋才の絹製品 の西洋における需要を見抜き、帰国後いち早く製品化しました。 正兵衛独自のアイデアでヘムステッチドハンカチーフをはじめ、タペストリー、カーテン、ティーガウン、ストッキング、 スモーキングジャケット、ネクタイ、エンブレム、扇子、帽子、ティーコゼなどを次々に製品化して輸出しました。