龍馬伝から富岡製糸場の道パート7 | 繭家の人生こぼれ繭

繭家の人生こぼれ繭

人にも自然素材にも優劣なんかない。『こぼれ繭』と呼ばれていたものに目をかけて、愛情を持って「カタチ」のある製品にする。そこから生まれる「やさしさ」から「人やモノ」を思いやる心が生まれるのだと思います。

先週の龍馬伝は薩長同盟を結んだ龍馬が寺田屋で襲撃されて..というお話でしたが。確か1866年1月の下旬の出来事でしたね。これからはブログに書く登場人物の動きをなるべく年代と重ね合わせていこうと思います...その方が何か見えないものが見えて来るかもしれませからね..
(薩長同盟や寺田屋事件のこの年の8月に小栗上野介は海軍奉行に任ぜられる。)

1863年の11月横浜の外国人はイギリス人が140人,アメリカ人80人、オランダ人40人、フランス人18人、ドイツ人14人、というように英米人が圧倒的なんです。(1860年1月英18米15蘭19仏1)ということはイギリスがかなり情報も含めてビジネスもリードしていたんでしょう。生糸に関して言うと、生糸はほとんどがロンドンへ船積みされて行くのです。1864年頃からイギリスへの生糸輸出が減ってきて、この66年頃はフランスに量的にも主役の座を奪われるんです。イギリス国内の経済がバブルが弾けたというのもの一因にはあるのですが..それはやはりフランスが急接近してきたのでしょう。そこに1864年赴任したフランス公私レオンロッシュの存在が大きい..彼はリヨンの絹織物業界から、日本の生糸をもっとフランスに輸出すること..これが彼の最大の仕事といってもいいんじゃないでしょうかね。

当時世界の貿易を支配し、中国との貿易でも圧倒的優位を占めていたのがイギリス商人であったことを考えれば、対日貿易をイギリス商人が牛耳ることは当然の成り行きでしょうが...歴史というのは面白いもので、200年あまり続いた鎖国の夢を、黒船を率いて打ち破ったのはアメリカのペリー提督で、さんざん徳川幕府を悩ませた修好通商条約を最初に結んだのもタウンゼントハリスで、ペリーとハリスの二人が日本を開国させた最大の立役者なんですが...なぜか幕末維新にはアメリカの影はあまり見えないですよね...。でも対米隷属になったのは戦後からずっと今日の今日まで..それも明日から変わるのでしょうか?それともこのまま同じままなのでしょうか..。                       

イギリスの狙いはズバリ、綿製品を中心とするイギリス工業製品のための新しい市場の獲得です。イギリス公使ラザフオードオールコックは、「我々にとって唯一の目的は、通商ということである。これはシャムでも中国でも日本でも同じことである。我々のの条約の目的は高価な武力に訴えることなしに通商を拡張し,自由に発展させることだ。衝突や中断の危険なしに新しい市場を獲得することが、マンチェスターの夢であり、広く我が国製造業界の希望である。」

それにしても...150年前も今もまったく同じである。日本の甘チャン政治家に耳の穴カッポじいてよく聞けってか..政治と金ばかり..と言ってクリーンぶっているマスメディアもそうだが..その影で何もしないで既得権益にどっぷりつかっている官僚、県市町村議員、公務員にもね..

龍馬が言っていますよ...『このままでは日本は潰れるぜよ..』