「愛がある」とは人それぞれ解釈が違う | 【フラクタル心理学】ひとり空回り専門~プチうつ、燃え尽きを繰り返す日々から、するする自己実現できるしなやかマインドのつくり方~
おはようございます。
明日から実家に帰省できるので
とっても楽しみな一日になりそうです。



昨日書いたこちらの記事
もう少し補足で書きますね。



子どもの頃の私は(つい最近までかも?)
「いつでも優しい人=愛のある人」
と定義されていましたので



時に怒る父はいつでも優しくないので
私は愛されていないのではないかと思っていました。



でも、いつでも優しい人なんていますかね?



逆にちょっと怖くありませんか?
感情がなくてちょっと人間味に欠けると言うか…



私はいつでもそんな人を期待していましたので
優しい人が少しでも怖い一面を見せると
裏切られた!と勝手に悲劇のヒロインを演じていました(汗



もっと言うと期待通りにしてくれる人を求めていたように思います。(´д`lll)





でも今の私は
「自立できるように促してくれる人=愛ある人」
になってますので



怒ってくれる人や厳しいことを言ってくれる人はとてもありがたい存在となりました。



これもいろんな経験や立場を経て分かったことですが
怒る方もエネルギーが要りますし
なるべくなら怒りたくないのです。



でもそれを圧してまでも怒るということは
怒らなければならない何かがありますし
最終的にはその人のことを思って怒っています。



「自立してほしい」
「出来るようになってほしい」



自分も出来て自立した方がはるかに成長できています。



それでも怒られたくない人は
まだ誰かに依存していたいのかもしれません。





自分の中の愛の定義は
周りを見るフィルターを勝手につくります。



結局父はとっても愛のある人でした(iДi)






一度自分の中の愛の定義を見直してみませんか?



思わぬ発見があるかもしれません。