博物館 網走監獄

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およそ120年前
冬になると海まで凍ってしまう
小さな漁村だった網走は、
なかなか開拓も進まず
10年程前からやっと
村で越冬する人も増えてきた、
そんな場所だったそうです。

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そんな網走の村に、
赤い着物姿で 手足を鎖で繋がれた男達が
役人に連れられやってきて、
森の木を切り倒し、
その材木で自分達の寝る小屋を建て始めました。

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毎月のように数十人の
鎖で繋がれた男達がやってきて...

村人が気付いた時には
千人以上の囚人が生活できる
大きな大きな刑務所が
出来上がっていたそうです。

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そこに掲げられた看板には
釧路監獄署 網走囚徒外役所」と書かれ
1200人の囚人と
監視職員と その家族も移り住み、
村の人口はいっぺんに何倍にも増えました。

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↑職員官舎   通称「看守長屋」

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職員官舎は、わずか9坪と狭く、
最低限の間取りで、今でいう1LDKだったそう。
昭和50年代までは
網走川の両河畔に
176戸 建ち並んでいました。

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あまりにも刑務所の名前が
有名になりすぎたことから、
排斥運動があったこともあるそうですが、
道路、鉄道、空港、港、広大な農地...
これら全ては、
囚人らの手で創り上げられたものです。

作業の過酷さに
多くの囚人達がこの網走を
終焉の地としながら・・・

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↑ ここは 「休泊所」 
別名〝動く監獄〟と言われていました。

網走と札幌を結ぶ 中央道路開削工事 では、
延べ1200人の受刑者が投入され
工事の進行に伴い、
解体しては移動を繰り返したそうです。

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ここの囚人は、3割以上が無期懲役、
その他も皆 刑期12年以上の
重罪人だったそうです。

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↓「浴場」も監視されています。

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↓「独立型独居房」
受刑者が最も恐れたものだそうです。
監獄内での反則行為をした者が入るそうです。

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↓「教誨堂(きょうかいどう)」
ここは、収容者に対して
精神的、倫理的、宗教的な指導を行う場所。
僧侶や牧師が人の道を説き、
更生へと導いたそうです。


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↓「監獄食」も体験しました

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東京では見ることのないサイズの
ホッケ(片面のみ)
片面だけでも物凄い厚みでした!

右上のフキも東京には無い太さ!
アキタブキという
東北以北にしかない品種だそうです。

真ん中は、山芋の鰹節がけ。
お味噌汁。

私には十分過ぎる内容でした




中村麻由