数日後に選挙がある。私は選挙にあまり関心がなくて、行かない時もあるし、気まぐれに行く場合も、前日に選挙公報を眺めて消去法で投票先を決めるようなやる気のなさだ。

なぜこんなに選挙にやる気がないのか。理由は色々なんだけれど、理由の一つにあるのは、「選挙の時に現れる知人」の存在、これは大きい。

普段たいして交流がないくせに、選挙が近づいてくると私にも近づいてきて、「○○に入れてくれ」とか言う。あれが本当にいやで。

だってもしもそれで、「頼まれたから入れてあげよっかなあ」なんていう人がいたとしたら、それって、よく考えないで投票することになる。もしかしたらテレビとか映画とかに出てくるような、独裁者に投票することにもなりかねない。

だから私はいつも、選挙が近づいてくると私に近づいてくる知人にはこう言うことにしている。

「選挙には行かないかもしれないので、私にお願いしてもムダですよ」と。

すると知人は言うわけです。「選挙は大事だ」と。

なので私はこう言い返してやります。

「大事だからこそ行かないんです。よく考えもせずに投票なんかしたら国が傾いてしまうかもしれない。だから私は、十分に勉強した時だけしか投票しないんです。でも今週は忙しいから勉強時間がとれそうになくて。だから私には選挙に行く資格はないんです。いい加減な気持ちで投票する人が増えたら、国はおかしくなってしまう。だから今回は選挙に行きません」と。

そんな風にして、「勉強不足の自分は選挙に行く資格がない」と長年言い続けているうちに、まあなんだか有言実行というか、元々あまり興味のなかった選挙がますます興味がなくなり、今に至っているわけですが。

ところが、そんな私が今、朝から晩まで選挙のことを考えて、選挙のことで頭がいっぱいになっている。新聞読む時だって、いつもは政治面なんてすっ飛ばして読んでいるのに、今回ばかりは政治面だってそれなりに目を通したりしている。そんな風に選挙のことを考えすぎたせいなんですかね、ちょっと熱まで出てきて心身ともにしんどいので、今日の予定はキャンセルして、こうやって文章を書いたりなんかしている。

先にも書いたとおり、私にとって選挙とは「人の言いなりになってはいけない神聖な儀式」だ。さらに言うならば、神聖だからこそ、いい加減な気持ちで参加してはいけないわけで、参加するならするでそれなりに勉強してからじゃないとダメでしょ、とそれが私の選挙に対する考え方だ。

でもね、今回の選挙はどうやらめちゃくちゃ大事な選挙らしい。勉強不足だなんだと言って逃げている場合ではない。

色々な情報を見聞きすると、ひしひしとそう感じるわけです。

なので私も重い腰を持ち上げて、選挙に関心を持つことにしましたよ。本を読んだり、新聞を読んだりして、付け焼き刃の知識をつなぎ合わせながら、「自分の答え」を探す努力をする。一念発起してやり始めましたが、いやあ大変大変。

専門用語はちんぷんかんぷんだし、戦争という言葉もたくさん飛び交っているけれど、結局なにがなんだか、真実がよく分からないし。

学べば学ぶほど、素人の私にはお手上げですよ、とさじを投げたくなる。

でも、考えることをやめてしまっては、誰かに頼まれたからと安易に投票する人と同じになってしまう。

だから、考え続ける。

考えずにAを選ぶ

よく考えてAを選ぶ

同じAを選んだとしても、それぞれのAの重みは異なる。

私はこの場で、「どこそこに入れろ」とかそういうことを言うつもりはない。そんなことをしたら、選挙の時だけ登場する知人と同じになってしまう。

でも、

なぜAを選んだのか、

Aを選ぶためにどれくらい熟慮したか、

この質問に対して、一人ひとりが自分の言葉で説明できるような世の中であってほしい。

言葉を選ばずに言うならば、「安易に投票する人」を減らして「よく考えて投票する人」を増やす。ことが大事なのではないかしら。「よく考えて投票する人」が一人でも増えれば、世の中が間違った方向に行きそうになった時、間違った方向を軌道修正できる可能性が見えてくるかもしれない。

だから私は、選挙当日ぎりぎりまで考え続けたい。根っこにある気持ちは、知人に「安易な気持ちで選挙に行きたくない」と告げた時となにも変わっていない。「周りに流されない」「よく考えて行動する」このプロセスに私はとことんこだわり続けるつもりです。 

追伸選挙目前の今、非常に興味深い文章に出会えました。教育者の谷藤先生という方が書かれた文章です。ご本人から許可をいただけたので、以下、そのまま転載させていただきます。⬇️子ども社会塾塾長の谷藤です。

選挙戦が盛り上がっています。フラットアーサーズって聞いたことありますか?地球は平面であると信じている人たちのことです。 地球が球体というのはNASAの陰謀であると信じて疑わないそうです。2020年にはそれを証明するための自作ロケットで墜落して亡くなる事故も起こっています。それがナニ?子育てのいろいろが見えてくるんです。 選挙直前、政局が熱いですね。ネットを見ると、それはそれはいろんな意見が飛び交っています。こっちの人とあっちの人が真逆のことを主張しています。何がホント?スタンス(主義主張、立場、信条など)の違いがあるから仕方ない・・・私はこの「スタンス」に違和感を感じている人間なのですが、だいぶその正体が分かってきました。

こんな例はいかがでしょうか。

地球は平面と信じて疑わないフラットアーサーズの人、地球は球体と知っている人、

 この2人に「世界一周クルーズ」の計画を立ててもらいます。まったく違うプランができることでしょう。そして見せっこします。

何が起こりますか?

「あなた、バカですか?」「あなたこそ頭おかしいんじゃないですか?」

相容れない平行線の議論が続くことでしょう。

「じゃあ銚子沖から東に旅をしたら背後の長崎に到着するとでも?」

 「そうです。地球は球体ですから。」

 「いやいや、東の端から奈落の底ですよ?いいんですか?」

 「東の端なんてありゃしないですよ」

 「そんな無責任なことよく言えますね!あなたもNASA派ですか!」

 これは「スタンスの違い」で片づけていいのでしょうか?人それぞれ主義主張がある、だから認めよう、なのでしょうか?信条と言えるものなのでしょうか?

 今の選挙戦で飛び交う様々な意見、あれって信条の違いでしょうか?

信条の違いを生み出しているもの、

その多くは単に知識の差では?

そう思えてならないのです。

 地球が球体であることを知っている人がフラットアーサーズに転身することはまずありません。

でもフラットアーサーズが「マジか!?」と球体を知る人に転身することはあり得るわけです。

そしたら信条はコロッと変わりますよね。

私自信、若い頃と今では政治信条が真逆です。

ある日気分で信条が変わったのではなく、勉強した結果、知ってしまった結果、信条が変わらざるを得なくなったのです。

 そして、すでに知っている人たちとピタリ意見が一致する世界を見るのです。

 なので教育がいかに大事か、

 それは子どもの教育から始まっている、

 ここにたどり着くのです。

 「だから自分の頭で考えなきゃ!」と、まとめる人がたくさんいますが、知識のある人はそう言えますよ。でも、分からない人は分からないのです。テレビやSNSを信じるしかないのです。

 でもそういう人でも知ることで変われるのです。

 「俺はこういう考えだから」「私はそんなの信じないね」

 そう言う前に、

 他の意見に耳を傾けてみませんか?

 そこにあるのは信条の差ではなくて、知識の差かもしれませんよ。

 経験者としてそう思います。

 塾長 谷藤賢一⬆️以上です。何を信じたらよいか分からず混乱していましたが、まずは知ること、知ろうと努力することから始めよう、と思ったら気持ちが落ち着きました。

自分の知ることのできる情報量には限りがありますが、

盲目的に判断を下さない、流されて判断を下さない、いったん立ち止まって考える、

最低限その気持ちだけでも忘れずにいようと思います。そのことの大切さを、一人でも多くの人に伝えたいです。
数日後に選挙がある。私は選挙にあまり関心がなくて、行かない時もあるし、気まぐれに行く場合も、前日に選挙公報を眺めて消去法で投票先を決めるようなやる気のなさだ。

なぜこんなに選挙にやる気がないのか。理由は色々なんだけれど、理由の一つにあるのは、「選挙の時に現れる知人」の存在、これは大きい。

普段たいして交流がないくせに、選挙が近づいてくると私にも近づいてきて、「○○に入れてくれ」とか言う。あれが本当にいやで。

だってもしもそれで、「頼まれたから入れてあげよっかなあ」なんていう人がいたとしたら、それって、よく考えないで投票することになる。もしかしたらテレビとか映画とかに出てくるような、独裁者に投票することにもなりかねない。

だから私はいつも、選挙が近づいてくると私に近づいてくる知人にはこう言うことにしている。

「選挙には行かないかもしれないので、私にお願いしてもムダですよ」と。

すると知人は言うわけです。「選挙は大事だ」と。

なので私はこう言い返してやります。

「大事だからこそ行かないんです。よく考えもせずに投票なんかしたら国が傾いてしまうかもしれない。だから私は、十分に勉強した時だけしか投票しないんです。でも今週は忙しいから勉強時間がとれそうになくて。だから私には選挙に行く資格はないんです。いい加減な気持ちで投票する人が増えたら、国はおかしくなってしまう。だから今回は選挙に行きません」と。

そんな風にして、「勉強不足の自分は選挙に行く資格がない」と長年言い続けているうちに、まあなんだか有言実行というか、元々あまり興味のなかった選挙がますます興味がなくなり、今に至っているわけですが。

ところが、そんな私が今、朝から晩まで選挙のことを考えて、選挙のことで頭がいっぱいになっている。新聞読む時だって、いつもは政治面なんてすっ飛ばして読んでいるのに、今回ばかりは政治面だってそれなりに目を通したりしている。そんな風に選挙のことを考えすぎたせいなんですかね、ちょっと熱まで出てきて心身ともにしんどいので、今日の予定はキャンセルして、こうやって文章を書いたりなんかしている。

先にも書いたとおり、私にとって選挙とは「人の言いなりになってはいけない神聖な儀式」だ。さらに言うならば、神聖だからこそ、いい加減な気持ちで参加してはいけないわけで、参加するならするでそれなりに勉強してからじゃないとダメでしょ、とそれが私の選挙に対する考え方だ。

でもね、今回の選挙はどうやらめちゃくちゃ大事な選挙らしい。勉強不足だなんだと言って逃げている場合ではない。

色々な情報を見聞きすると、ひしひしとそう感じるわけです。

なので私も重い腰を持ち上げて、選挙に関心を持つことにしましたよ。本を読んだり、新聞を読んだりして、付け焼き刃の知識をつなぎ合わせながら、「自分の答え」を探す努力をする。一念発起してやり始めましたが、いやあ大変大変。

専門用語はちんぷんかんぷんだし、戦争という言葉もたくさん飛び交っているけれど、結局なにがなんだか、真実がよく分からないし。

学べば学ぶほど、素人の私にはお手上げですよ、とさじを投げたくなる。

でも、考えることをやめてしまっては、誰かに頼まれたからと安易に投票する人と同じになってしまう。

だから、考え続ける。

考えずにAを選ぶ

よく考えてAを選ぶ

同じAを選んだとしても、それぞれのAの重みは異なる。

私はこの場で、「どこそこに入れろ」とかそういうことを言うつもりはない。そんなことをしたら、選挙の時だけ登場する知人と同じになってしまう。

でも、

なぜAを選んだのか、

Aを選ぶためにどれくらい熟慮したか、

この質問に対して、一人ひとりが自分の言葉で説明できるような世の中であってほしい。

言葉を選ばずに言うならば、「安易に投票する人」を減らして「よく考えて投票する人」を増やす。ことが大事なのではないかしら。「よく考えて投票する人」が一人でも増えれば、世の中が間違った方向に行きそうになった時、間違った方向を軌道修正できる可能性が見えてくるかもしれない。

だから私は、選挙当日ぎりぎりまで考え続けたい。根っこにある気持ちは、知人に「安易な気持ちで選挙に行きたくない」と告げた時となにも変わっていない。「周りに流されない」「よく考えて行動する」このプロセスに私はとことんこだわり続けるつもりです。
映画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』を観に行ってきました。戦争映画ということまでは分かっていましたが、それ以外の内容はよく分からずに予習もなにもせず映画館へ。

行く前は思っていたんですよね。やることたくさんあって映画なんか観ている場合じゃないのに、なぜ私はわざわざお金を払って、じっと椅子に縛りつけられて戦争シーンなんか観るのだろうか、と。

映画館で座っていてもその思いは変わらず、ひたすら繰り広げられる残虐な戦争シーンは、見ていて辛くなるばかりで、あまりにも怖くて席を立ちたくなったほど。戦争は怖いよね、とかいうそういうレベルではなくて、ホラー映画みたいなじわじわくる恐怖みたいなのがあって、「助けてくれ~」と言いたくなるような映画体験でした。

でもね、一番怖かったのは戦闘シーンではなく、クライマックスのあのシーンで、ここから先はネタバレになりますが、ネタバレしてしまいますね。

広島に原爆が落とされ終戦となるが、ペリリュー島の日本兵たちは終戦を知らずに武装を続けます。でももうアメリカは攻撃してこないから大丈夫。後はなんとか終戦を知って日本に帰るのみ。

ここまで来れば一安心。よくぞ皆生き延びたね。残酷なシーンはこの後はなさそうだわ。

と胸をなでおろしながら観ていたのですが、ところがどっこい、ここからが一番怖かった(涙)

日本兵の誰かが、アメリカの基地のゴミ箱からアメリカの新聞を拾って帰ります。英語に堪能な人がそれを読み、「戦争は終わったと書いてある」と日本軍のアジトで皆に告げます。

普通に考えたら後は話は簡単ですよね。

なんだなんだ、もう武装しなくていいのか。負けたのは残念だが、とりあえず戦闘は終了だな。

と、普通こういう発想になると思うのですが、、

日本兵たちの間で意見が分かれます。

この新聞は自分たちを油断させるための罠だ。だまされてはいけない。これからも武装を続ける。

という意見と、

ゴミ箱に落ちていた新聞だし、英語で書かれている。いくらなんでも罠にしてはおかしい。本当に戦争は終わったのではないか。

という意見と。

で、意見が分かれたらそれはそれで議論を続ければいいのに、皆からの信頼の厚いリーダーが、「これは罠だ。だまされるな。俺たちは闘い続ける」と力強く言ったとたん、そうだそうだ、となってしまうんですよね。。

それから数日後、主人公の友だちが皆のいないところで、こう言います。「本当に戦争は終わっているのではないだろうか。僕は一人でアメリカ基地に行って降伏する。そして真実を確かめる」と。

降伏というのは、自ら白旗を上げる行為なので、当時は死罪に匹敵する行為でした。それでも友だちの意志は固かったため、主人公は「僕も一緒に行く」と友だちの味方になる決意をします。

そして降伏決行の当日。白旗を持ってこっそりとアメリカ基地へ行こうとする二人は、日本軍の仲間たちに見つかってしまいます。

必死でとめるリーダー。それでも走り続ける二人。「あの二人を撃て」というリーダーの絶叫。二人に降り注ぐ銃弾の雨。そこへ銃撃中の日本兵たちを邪魔するかのように、手榴弾が投げ込まれ(投げ込んだ人は二人を逃がす手助けをしたわけですが、手助けをしたがために後で殺されます)、たくさんの犠牲を払いながらも、主人公とその友だちは、なんとか仲間たちから逃げおおせてアメリカ基地へと近づきます。

するとそこへ、例のリーダーが一人で現れて通せんぼします。「行くなら撃つ」と。

リーダーと友だちは、にらみ合いの末に、震える手で互いに銃を引き、銃弾はどちらとも命中。二人とも血だらけになります。

瀕死状態の友をおぶって、アメリカ基地にかけ込む主人公。そこで、「戦争は終わっている」とようやく真実を知ることができたのですが、その時すでに背中の友は血だらけで息絶えていました。

敵と味方で殺し合う前半のシーンも相当残酷だったのですが、味方同士で殺し合う後半部分が私は一番怖かった。

主人公の友だちは、リーダーに流されず、リーダーを崇拝する皆の勢いに流されず、冷静に正しい判断をした。自分の頭で考えて、勇気を出して「正しいこと」をしようとした。

それなのに、その「正しさ」が、人を傷つけ自分も傷つけられ、その結果、仲間同士で殺し合うという最悪の事態を招いてしまう。

怖いのは戦争ではなくて、人間社会の中に潜むこういう理不尽な構造なのではないか。そんな重たい問いを最後の最後に投げかけられたような気がしました。

それでも、だから人間はだめなんだよ、ということではなくって、流されずに「正しいこと」をしようとした人が映画の中でクローズアップされたこと。そしてその映画をたくさんの人が観たこと。そこに希望があるように私は感じました。

戦争はよくないよね。という教訓以外に、「強い声にに盲目的に従うような土壌は時に悲劇を生むよね」と、そういう教訓を観客が持ち帰ることができたのなら、それはこの平和な世の中にあっても生かせる大切な教訓なんだと思う。

仲間同士で殺し合うことになったシーンが一番怖かったけれど、そこにこそ大きなメッセージがある。そんな風に思いながら、何日も何日も映画の余韻にひたり続けています。