選挙戦が始まるといつも、運動員や議員の方に悩まされる問題があります。それは、彼らが点字ブロックの上に立って「ご挨拶」をしてしまうことです。
点字ブロックは、多くは通り易いところにあるため、駅のプラットホームやコンコース、道路などかなり多様な場所で、人が上に立ってしまいます。一般の人であれば、同じ通行人として空けていただけるようにお願いすることになります。
しかし、選挙運動は違うと私は思うのです。当選するためとはいえ、彼らは人が通行する場所を借りて活動をするわけです。応援する人もいるでしょうし、直接政策論争ができる機会にもなるでしょう。私個人としては、演説はまだしも、朝夕に駅頭でひたすら「おはようございます」、「いってらっしゃいませ」と繰り返している「ご挨拶」が、顔をおぼえてもらう以外、本来の選挙にどの程度有効なのかよく分かりません。それでも、長年みなさんがなさっているので何か良いことがあるのでしょう。
ただ、選挙なら何をしても良いのではないと思います。特に、点字ブロックの上に立っても良いという「緊急ルール」はあり得ません。ましてや、そんなルールをなし崩し的に作ってしまってはぜったいにいけないと思います。
きょうあった悲しいことというのは、こうでした。
私がいつも使う点字ブロックの上に数人の選挙運動員の方と、議員さんが立って「ご挨拶」をしておられました。ぶつかるほど傍に行っても避けてくださいませんでした。それどころか、振り向いて私に「おはようございます」と言うのです。
私はさすがに、珍しく、切れてしまいました。
「この上に立ってはいけないと思います」
と言ってしまいました。すると、一人は「すみません」と避けてくれましたが、もう一人は黙って避けるが速いか、すぐに「ご挨拶」を再開しました。
「この上」では意味が通じなかったかな、と思ったので、私は数歩行ってから戻って「ここは点字ブロックなので」と説明しました。悲しかったのは、それに対して返答がなかったことです。一言でいえば、彼らは私を無視して「ご挨拶」を続けたのでした。
どこの党かは分かりませんでしたし、あえて確かめませんでした。しかし、点字ブロックの上に立つということは、交通における弱者の命を危険にさらすことである、という事実を、彼らはまったく認識しないまま選挙戦を続けているのです。たまたま立ってしまい、すみません、と避けるところまでは赦しましょう。しかし、わざわざ説明のために戻った相手を無視することは、赦されるでしょうか。
大学で教えているシーンレスの先生が、自分の授業中にトランプをしていた福祉学科の学生に対してこう言ったそうです。
「僕に対して行って恥ずかしいことは、誰に対して行っても恥ずかしいことです」
まさにその通りだと思います。票の数としては少ない障害者が一人で点字ブロックの説明をしたところで、それを無視しても当落には影響しないかもしれません。しかし、私に対して彼らが取った態度は、彼らが隠し持つ本性でもあるのです。私はたまたま障害者として彼らと出会いましたが、障害があるかどうかの問題ではなく、少数の有権者、もしくは健常者ではない不利な人々を上から見下ろして無視する姿勢は、当選した後で彼らが取り得る態度の予感だと思うのです。歩行に困難のある人が、一度取った道を戻って説明する大変さも、朝の忙しさのなかで後からくるシーンレスのことを考えてきちんと伝えようとした気持ちも、彼らは永遠に理解しないでしょう。そして、当選した後も、そうした理解のない政治をするのかもしれません。
イエス・キリストは、小さなことに忠実な人は大きなことにも忠実であり、反対に小さなことに不実な人は大きなことにも不実だと言います。道をふさいだ一人の相手に対する「小さな態度」ひとつまともに取れない人が、国の政治という大事を預かって同じ態度を取ったとしたら、日本の「不利な人々」はどれだけの影響を受けるでしょう。
もし彼らが「ご挨拶」を止めて私を誘導してくれたら、たとえ選挙のためのパフォーマンスであっても大いに感激したと思います。周囲の人も、その議員さんを尊敬するでしょう。有権者からそのような気持を勝ち取ることができることこそ、本来の選挙戦ではないでしょうか。
当落に必死なことはよく分かります。でも、通行する人々も命がけで歩いています。必死なことに変わりはありません。だから、議員さんでも選挙中でも、交通ルールは守っていただかねばなりません。いけないことはいけない。保育園でも習う人間の基本です。
これを読まれた選挙関係者の方がおられたら、どうか通行者の安全を大切にして選挙戦をなさってくださいますよう、心からお願いします。
(誤変換等はご容赦ください)