冷蔵庫にほとんどものがない。
スーパーに行っても買いたいものがない、これといって食べたいものがない。
他のどんな行為についても、概ね同じことが起こっていて、何もする気になれない。
では何もしていないのかといえば、結構多くのことをやっていて、それを端から見れば自由で何にも急かされず、生活の心配もなく、好きなことをやっていればい、、、
そんな毎日なのである。
インスタグラムで日常をにつなげば、アクティブに出かけ、きれいなものに感動したり、動植物に癒される自分が出来上がる。楽し気な自分まで登場する。
昨日もあるギャラリーに出かけたので、作家の方と写真まで撮り、日本の伝統的な染色がいかに貴重か、紹介記事を書きかけていた。そこで、なんだかとても嫌気がさしてしまったのだった。
また自分でない自分ができあがっていくようで。
いったい私は何がしたいのだ?
ここまで感性が鈍ってしまった原因は何なのだ?
どんなことにも、感情がついていかない。
この閉塞からにげるために、すぐに横になり、思考を停止し、さらには睡眠に救いを求める。
何度もこの状況に至るということは、これが私の本質なのか。それなら、この「停滞する自分」も受け入れて愛してやるしかない。
ブログの手を13行目で止めて、少し横になり、そして突然衝動に駆られて1枚のパステル画を描いた。
戻って文章を書いているうちに、わたしにとって表現するということはこういう苦しみを伴うものに変化したのかもしれないと感じた。
机の上、左手方向に置かれた『マティスとルオー 友情の手紙』。
その表紙のマティス自画像の目が「ただやれ。」と言っているようだった。