となりのやつほど憎くなる | 台湾食べっぱなし(小吃と台湾華語)

台湾食べっぱなし(小吃と台湾華語)

台湾に住むことになっていろいろと、気持ちよかったりわるかったり。楽になったり辛かったり。
食べ物のことが中心です。

いろいろあって、家族やら肉親やら愛やら夫婦やら親子やら兄弟やらを考える。




密接な、自分とは切っても切れない人間にほど、強烈な想いがゆえに殺意を抱く、ということは至極自然だ。

動物の本能として愛している自分すら殺したいことがある。

自己と密着している他人が邪魔になるのは、ドライな気持ちでむしろ、なかったら、不思議だ。



単に執着といってしまうのはたやすい。

実際は、それに、結構くだらないレベルの恩着せや甘えや、その他いろいろなダラだらっとした粘着物が付着する。

それを、愛ということもある。縁ということもある。キレイな色で塗られることすらある。

家族というホンワカとした気のおけなさは、ある日突然、どろどろと変質しても、何の不思議もない不確かなモノだ。


たったひとつの出来事で、それは一変する。

意外と簡単なことで、意外と何もなくても、その中のたったひとりの気の持ちようで一変する。

だから、ホンワカノホホンと暮らしていることは、実は本当にたいしたことなのだ。


きりきりと深みに落ちていくことは、結構簡単なことだ。

こんなえげつない世の中でもぎりぎり持ちこたえている、現代の日本人は、私はたいしたものだと思う。


でもヤッパリ、殺したいほど愛しい、近いが故に憎い、という深みは、
時に意に反して、時に清楚な悪女のように魅惑的に、
雪崩みたいに身も心もさらい尽くす。

そうやって、彼らは身近なひとを傷めたのだろう。




そんな気持ちが憑いてしまった時に、どろどろにならないひとつの方法は、浅く、生きることだ。

深みを 

追わない。


だって、みんな死んでしまうのだ。

それだけの話を、それだけのようにやっていく同胞だ。


知らなくてもいいことは、ここには結構たくさんある。

汚いモノがたんとあると知りながら、

よどんだ空気の中で歌いながら生きることは、実はたいした勇気ではないか。


深い湖底を意識しながら、軽やかにノホホンと生きる人を家族を、

私は深く尊敬する。




あ・・・!べつに夫をどうこうしようっていうんじゃありませんよっ!