この日を迎えられずうちに帰宅できなかったあの子を想うとやり切れない。


長女が生まれた日を考えこれを書きながら涙が止まらない。


20歳のお祝いを生前の娘と話したあの日。


成人式はコロナ禍だから行けないだろうし振袖も着たくない👘と私に話した。


私も自分の成人式は振袖にも全く興味も無く地元の式にも行かなかった。


大事なのは気持ちだから○○が行きたいなら行ったら良いと、振袖は着たくないならそれでも良いかと思う。と話した。



だけど、本当は振袖着たかった。

と娘は言葉を遺していた。


それを見て涙が溢れた。


ごめんね。


本音が言えなかったんだね。




長女が生まれた時


予定日より早く前兆が来てその日は病院の検診だったので心音を聴き先生は微弱陣痛が始まったから一度家に帰って入院の準備をして来て下さい。といわれ自宅に戻りシャワーをしてから再来した。


その日は土曜日でした。夜生まれるのかと実家の母と弟が駆けつけてくれたが微弱陣痛のままで、

母弟は一旦帰宅。

翌日のお昼までは耐えらる痛みだったが、だんだんと間隔も狭まって夜の18時には痛みに耐えきれず助産師さんに分娩室に移動させられた。

もう時間の感覚も分からないほどいきみ苦しみで明け方になってからやっと担当医がきたが赤ちゃんの頭が骨盤に引っかかり出てこれない 酸素の値も下がってきているといわれ吸引するから頑張ってと先生は自然分娩をあくまで推奨するが、私の体力は限界に達していた。力が入らず口も渇きまくり気を失う寸前に出た言葉が

「お願いします切って下さい」

先生は緊急Opeの準備と承諾してくれた。

月曜日の朝7時に生まれた。

私は全身麻酔から一瞬醒め息苦しさから口に入っていたパイプを自力で外してしまった。意識は薄かったが記憶がある。

生まれたと聞いてまた意識を無くした。


娘と対面できたのは翌々日だった。


平成13.10.15生まれ

3426g 50cm臍の緒の木箱の裏に記載した。


産後新生児黄疸が出て保育器で光線治療をしなければならなくて予定より長く入院した。

私は全身筋肉痛で両腕が挙がらなくなってしまい無理矢理に外したパイプで口蓋を傷つけてしまい入院中に別の病院へ外来したりしながら授乳指導をしてもらい産後ケアを長期入院でできた。


これらの試練もやっと逢えた我が娘の誕生の喜びで乗り越えられた。


長女を出産する1年前に私は双子の男児を7ヶ月目に死産していた辛い経験の後で 娘が本当に生まれてきてくれたことが心底嬉しかった。


娘にも話した事を思い出す。


今日は見る事ができないでいた母子手帳と僅かな写真を見ては思い耽っていた。