鵜森神社(うのもりじんじゃ)

 

 

三重県四日市市鵜森町にあります。

 

この前に行った諏訪神社と深いつながりがある神社です。

 

 

 

鳥居

 

バイオハザードのレーザー光線みたいにアルミの柱が張り巡っていますキョロキョロ

なんでしょう?祭の飾りつけでしょうか!?

 

 

十六間四方白星兜鉢(じゅうろっけんよほうしろほしかぶと:平安時代)が国指定重要文化財に、

浜田城(室町時代創建)跡が四日市市指定記念物に指定された案内板

 

 

 

 

 

浜田城跡碑文

 

ざっくりこんな事が書かれています。。

 

 

・鴨長明がこの地の歌を詠んでいる。

・延喜式神名帳には「江田神社」と記されている。

・里のはずれにあり鵜が沢山やってくることから世間では「鵜の森」と呼んでいる。

・昔、城があった。

・領主は出羽国秋田の者。

 

・1470年 俵忠秀が築城。以後三代が領主となる。

・1575年 織田信長の家臣 滝川一益の伊勢侵攻により滅ぶ。

 

田原家の祖先 藤原秀郷の兜を城主の田原忠秀が鵜の森に奉納した。

→1000年2000年後も百姓が雨に恵まれますようにという心遣いからである。

 

これを記すのは神主 従五位下石見守藤原朝臣守澄

源潔 慎書

 

 

 

 

アルミ柱は参道ずっと続いていますキョロキョロ

 

 

ハト

 

 

手水舎

 

 

 

参道にはこのような鵜森神社の歴史案内板があります。

 

 

2016年に再興された室町時代の浜田城の冠木門の案内

 

 

江戸時代の東海道(四日市宿・浜田村)の地図

 

左上の絵は滝川の伊勢侵攻かと思ったら違いました…キョロキョロハッ

 

絵の下に田原一族が群馬から三重にやってきてその後城を構えたことが記されていますんで、三重にやってきた直後の想像図だと思われますハッ

こんなイメージ? おどろおどろしいわ…キョロキョロ

 

案内板の右上は浜田城の復元図。

 

 

浜田村アップ虫めがね

浜田村の所には

俵(田原)美作守古城跡やら江田之天神やら鵜之森やら書かれています。

 

 

四日市宿アップ虫めがね

左上に諏訪大明神があります。

それより右下の堀で囲まれた屋敷が気になりますね。。陣屋のようです。

 

 

 

食事中のハト

 

 

 

①秀郷、父から太刀を譲り受ける

 

醍醐天皇時代(平安時代:今の大河ドラマの80年くらい前?)の話。

藤太(藤原)秀郷が下野国(栃木県)の領主となり、年老いた父から太刀を譲り受けた。

 

絵は奥が父の村雄で手前のオレンジ衣装が秀郷。

 

 

②秀郷と三上山の大ムカデ

 

近江国の瀬田大橋に大蛇が横たわり通路を塞いでいるという噂を聞いた秀郷は、いざ大蛇の背中を踏み越えそのまま橋を渡り終えたという。

その後、「あの大蛇です」と言って秀郷の宿にやってきた美女が「三上山の大ムカデに困っています。勇者であろうあなたに是非退治を…」と懇願。

 

絵は無で渡る秀郷とそれを見る大蛇。逃げ惑う民もしくは従者。

 

 

③秀郷のムカデ退治

 

出陣前に御上神社に祈願。

秀郷は三上山からやってきた大ムカデを瀬田大橋で待ち伏せし弓矢攻撃。

こういうの見ると、ムカデ側の豪族は一体誰なんだろうといつも思います。

 

三上山は別名:近江富士でおなじみのあの山ですね富士山

御上神社は今でも存在する三上山の麓にある神社。。一度行ってみたいと思ってました。

 

 

④秀郷、竜宮でほうびを受ける

 

ムカデを退治したことに喜んだ琵琶湖の竜神は秀郷に数々の宝物を与えた。

その米俵からは尽きることなく米があふれ続け、それにより秀郷は「俵藤太」と呼ばれるようになった。

 

俵からの田原なんですね!

 

左の椅子に座っているのが竜神…でよろしいでしょうかキョロキョロ

竜神の使いの者でしょうかね…

 

 

龍

 

 

 

秀郷の十五代目の子孫により建立された龍王宮秀郷社。

大津市瀬田の唐橋付近にあるそうです。

 

 

同じく秀郷の子孫である田原氏。

浜田城を築城した田原忠秀。

その後、戦国時代に入り浜田城は滅亡。それにゆかりのある墓が鈴鹿市山本町にあるようです。

 

 

 

重要文化財に指定された十六間四方白星兜鉢の写真と構造の案内

 

 

 

やっと足あと

拝殿

 

 

田原一族の他おなじみの神が祀られています。

 

 

諏訪神社と同じく屋根の上に狛犬がいました。

 

 

 

田原稲荷大明神(1995年に改称)

 

1724年の帳に記載されている稲荷社で、古い歴史があるようです。

 

 

神社