私も含めて人々は通貨を求める。何故なら、衣食住全てにおいて通貨なしではこの社会で生きていくことは極めて困難、もしくは不可能といってもいいからである。


 では、通貨には何故そのような価値があるのか?その価値の本質とは何かを考察してみようと思う。


 まず、歴史から紐解くと初めて使用された通貨は食料等の「実用的な物」であった。それを物々交換することで、経済は成り立っていた。

 しかしそれでは、交換したいものでないと取引が出来なかった為、美しい貝殻、宝石、石貨、貴金属(主として銀、金)等の「希少性がある物」へと移り変わっていく。 

 特に、金はごく最近まで通貨であった。 金貨としてや、兌換紙幣(金に交換できる紙幣)として流通していた。またこれを「金本位制」という。

 そして現在では「ある問題」が生じたため、紙幣や、主として金、銀以外の金属を使った硬貨等の「ありふれた物」になった。


 ある問題とは1929年におきた「世界恐慌」によって起きた「デフレ不況」である。

 デフレ下で行うべき政策は積極財政と金融緩和で、通貨量を増加させる必要がある。しかし、金の保持量を超えて通貨を発行できない「金本位制」ではこの政策を取れない。そこで、金と通貨は切り離され通貨量を政府がコントロールできるようになった。


 現代の通貨には「実用性」もなく素材に「希少性」もない。なのに、「価値」はある。

 この価値を支えているものが政府・社会への「信用」という名の「幻想」である。

 そして、それはたしかに存在しているが、目に見えないものである。

 

 もし、この「幻想」が破壊されたらどうなるのか?紙幣は紙屑に硬貨は金属屑になり、経済は大混乱に陥る。実際、この事態が起きた国、地域は多数存在する。


 今回は通貨の歴史を中心に書いたが、次回はこの幻想の中身を考察してみたい。



 リーマンショック以降、グローバル経済による世界の歪みが表立ってきている。各国国民の格差は止めど無く広がり、世界恐慌と呼んでも差し支えない状況まできてしまっている。



 では、グローバル経済とは何なのか?一言で言い表すならば「上位1%のエリートのための経済」である。

 つまり、1%の富を増やすことに主眼が置かれ、そのためには残り99%の国民が犠牲になろうとも構わない経済・社会体制のことである。



 ここで、大きな疑問がひとつ考えられる。それは、民主主義社会において何故1%が残りの99%を支配できるのか?である。



 民主主義には多数決という原則があり、多数派が優遇される政治体制である。 逆に言い換えると、多数を取りさえすれば、多数派が好き勝手に出来てしまう制度でもある。

 そして、資本家は多数を取り込んだのだ。マスメディア、政治家、学者、官僚等の多くを取り込んで、資本家にとって都合の良い「改革」を「国民のため」と偽って実行させている。



 具体的な実行手段としては、それらを操り1%の者にとって都合の良い政策、改革をあたかも国民の為であると偽って実行する。

 こういった政策を進めていくと当然のことながら残りの国民は貧しくなる。それに対してはある業界、組織を「悪役」にする。

 そして、「こいつらのせいで社会が上手くいかない」と責任を転嫁し、国民の不満をそちらに向けさせる。

 国民はヒーローショーが大好きである。「悪役」が倒されていく姿に拍手喝采を送る。その「悪役」が倒されれば、また別の「悪役」が作り出される。

 実はこのヒーローショーとは、国民の足の引っ張り合いであり、国民が自ら首を絞めるように貧しくなっていくのである。


 私は直接見ていないのだが、「報道ステーション」で高橋源一郎なる人物が尖閣諸島問題で

 「日本には他に大切な社会問題があるのだからこの領土問題はどうでもいい」という要旨の発言をしたそうである。またそれに賛同する人も少なからずいた。

 

 まだ、その問題に対して興味がないというのなら分かる。ただ、それならば何故コメンテーターを引き受けたのか大いに疑問であるが。

 

 何故、領土問題が重要な社会問題であるかというと食料、エネルギー、鉱石、サービス、文化、歴史等の多様な資源を生み出す源泉があるからである。

 古来より人間は、領土問題で国家間ならず個人間でも争ってきた。その争いは現在でもいたるところで行われている。

 

 では、その領土を支配している者が持っているものは何かというと「正当性」と「力」である。

 

 まず、領土を支配している者、しようとしている者が真っ先に主張するのが「正当性」である。そして、複数の者が支配しようとして争いが起きると「力」によって支配者が決定する。ここでの「力」とは軍事力、経済力、外交力などである。ただし、この「力」を振るうには関係者を説得するために「正当性」が要求される。しかし、残念なことにこの「正当性」は不当な主張であっても偽装可能なのである。

 

 私が、北方領土、竹島、尖閣諸島が日本領土であると考えるのは日本の領土というのが一番「正当性」があると判断するからである。

 確かに日本と領土問題を争っている彼らも「正当性」を主張している。だが、その主張は「不当」な主張を張り替えているのである。

 何よりも不当な主張を「力」によって解決することに憤りを感じる。さらに、そうしたことが行われると大きな混乱を将来に残すことになるのだ。

 

 領土問題が重要な問題であることも分からぬ者が、社会問題についてテレビで論じているのだ。恐ろしい国である。


 数年前しきりに「友愛」という言葉をしきりに使う首相がこの国にいた。その当時、この言葉の意味を解説しているマスメディアはほとんどいなかった。

 しかし、この「友愛」なる言葉、つまりイデオロギーのせいで領土問題を始め、外交方面において戦後日本の混乱の大きな一因になっているといっても過言ではないからである。

 今こそこの「友愛」なるものを考察してみることにする。


 そもそも「友愛」とは何なんなのかというと、左翼主義の「自由、平等、友愛」という三つのスローガンのうちの一つである。意味はというと、

「他者であっても友、もしくは兄弟姉妹のように愛しなさい。そうすれば世界は慈悲の心で満たされる。」

 と、いうようなものである。

ちなみに、この他者には、他国民、他民族、他宗教なども含まれる。

 要するに「人類皆兄弟なのだから仲良くしましょう。」という意味である。


 だが、現実を見る限り、歴史的、文化的、地理的な民族同士の溝は友愛主義者が考えているよりもはるかに深く。さらにグローバル化の現状を考えると、その溝を埋めることで人類はより更なる混迷へと向かっている。


 現実と大きくかけ離れ、妄想でしかない「友愛」なるイデオロギーに取り付かれた者が首相となってしまったという時点でこの国の病状はかなり深刻である。

 

 一方で、この事態は戦後日本の流れ着く先として必然であったのかもしれない。日本国憲法にはこう書かれている。

 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

日本の主な周辺諸国に「公正と信義に信頼」できる国があるのだろうか?現実は全くの逆である。


 その国の法規の原典である憲法からして現実からかけ離れた妄想で書かれている時点で、今日の日本の混迷は必然だったのだ。

今年も終戦「記念日」の8月15日が過ぎた。


平和ボケしきった日本では、主権よりも目の前の小銭の方が重要であるらしい。

まさに「エコノミックアニマル」である。金なんてものはチケットである以上、その発行元。つまり、国家に信頼がおけないと価値の無いものなのだが。


そして、私自身も平和ボケに毒されまいと抵抗を試みているが、この社会の「毒ガス」を吸ってしまったおかげで無意識のうちに取り込まれてしまっている。


ある掲示板の書き込みを見つけたとき、思わず考えてしまったことがある。要約すると、

「戦争なんてものは遠い異国での話か、空想の小説での話である。身近に思えるものではない。」

と、いうようなものであった。

まさに、平和ボケしきった意見ではあるが私も含めて多くの日本人が無意識的にこの様なことを考えているのではないのか?


無意識を抵抗するのは難しい。されど、平和ボケしきったまま今後日本が世界を渡り歩けるのだろうか?

残念ながら、世界はそれほど甘くないだろう。