今日のお昼は冷やし中華でした。
ここのところお弁当かパンというのがお昼のパターンだったのですが、
今日は午前中は自宅にいてゆっくりできたので、
生協で頼んであった冷やし中華を作って早お昼にしました。
私は、麺類は、自分で積極的に食べることはめったになくて、
手早いからとか、家族のために作るという感じです。
それが、
冷やし中華だけは例外。
今日はちょっと涼しかったけれど
今年はじめての冷やし中華の日でした。
錦糸卵をつくって、ハムときゅうりとトマトを切って面に載せます
きれいないろどりみているだけでニコニコです。
そうして、口に含むとexclamation
「そうそうこのすっぱさ」
大好きな味です。

ラーメンよりも絶対においしいなあと思いました。
さわやかで、すっきりした味わいです。
本当は一年中食べたいけれど、
秋から冬は食べないということが、
また、新鮮なのかもしれません。

あ、もう冷やし中華の季節と思うことで、季節の変化を感じることも幸せです。

この4月に疲労がたまった時、
このまま、ストレスためると、
「食事をおいしく食べる」という感覚もなくなってしまうかもしれない。
とちょっと不安になりました。
一食、一食大切に味わって食べるようでありたい。
それが私の願いなのに。

前回の日記の運動のところでも感じたのですが
どんなことより大切なことは
「生きる歓びを枯らさない」ことだなあと最近あらためて
思っています。

それは、なによりも優先することだと、
経済的なこと、社会的なこと、いろいろ目標があるでしょうが、
私の場合は、まず、
日々の生活の中で、「生きる歓び」を感じていけるような自分でいるということが生きていくことのバロメーターのようです。

それがあれば、まあ、なんとか人生はやっていけそうです。
そのために必要なものは意外とすくなくて、
自分で冷やし中華を作って食べて充分幸せなので、
まあ、経済的効果ということでいえば実に効率のよい私です。

「生きる歓び」を少し枯らした経験があると、
そのことの貴重さは実に良くわかります。

まあ、すべてのことには、意味があるというこですね。

次の歓び、コーヒーをいれることにします
週末のあれこれです。

その1
あろうことか、スーパーで万引きの現場をみてしまいました。
本当に堂々と若い女の人がクッキーをスーパーのかごにではなくて、黒い自分の袋にいれいたのをみてしまいました。
あまり堂々としていのたで、お店の人かと思ってしまいました。
一つだけではなくて、次々とたくさん。
少し離れた場所にいたのですが、よくみえました。
もう、ドキドキして、
注意しにいこうか、お店の人に話そうかと、色々頭によぎって
私がパニックです。

結果的には何もしませんでした。
その人は、何回もそのお菓子売り場にもどってくるのです。
とても不安そうなカオをして、
どんな気持ちが、どんな状況か
なにもわからないけれど、
そこまで追い詰められるきもちは、伝わってきてしまいそうでした。

もっている黒い袋が、お菓子でパンパンになっていました。
どうみてもおかしい雰囲気でした。
その後どうなったのでしょうか。

家に帰っても、わたしが 苦しくなりました。
単に、お菓子がほしいからとったというこではないのだけはわかりました。
見ているだけだった私ですがつらさだけ残りました。


その2
ひさしぶりにプールにいきました。
4月、多忙だったのに、体重は劇的にふえました。
身体を動かさない仕事だったこと
ストレスで食べたりなんだりしすぎたことが原因です。
私の場合、
食べたり飲んだりをうばうことはできないので、
最後ののぞみは 運動です。

もともと体育は苦手
私のこどものころオリンピックが東京であり、
当時のスローガンが
「より速く、より強く、より美しく」
ということで、
体力のない私は、
体育は苦手、辛い時間でした。

でも大人になれば、身体をうごかすことは
こんなに楽しいの?ということがわかりました。

4月にストレスまみれになったひとつはきっと運動不足と思い
また、プールにいっています。

忙しいけれど、運動の時間というのはわたしには、眠ったり、食事をとるのと同じような必要な時間なんだということを今日は実感してかえることができました。
連休の最後の日、細かい用事もあったのですが
ポイントもたまっているし、
久しぶりに映画にいってきました。
ところが、めずらしく、
見たい映画がなくて、悩んでしまいました。
スパイダーマン3でいいかなあと思ったところで
とびこんできたのが「神童」というタイトル。
よく知らなかったのですが
天才ピアニストの少女の苦悩と成長の映画ということで
当然ながら、バックには音楽が流れるだろうなあと思って、
大好きな「野だめカンタービレ」と似たような話かと思い、
「音楽に癒されたいよー」という気持ちのまま
この映画にきめました。

よかったです。
本当に。
最初のシーンから、耳をすます映画でした。
それは音楽ではなくて、水の音。小鳥のさえずり。自然の音でした。
それは、これから映画に流れるピアノの音。オーケストラの音。歌声。につながる音。でした。
監督はここで、まず、「音を聴いて」というメッセージを観客に届けていたようです。

耳を澄ますこと。音に耳を傾けること。

音楽は自分の外からおとずれるものだけではなくて、
自分のうちからも聞こえてくるもの。
耳を傾けることができれば・・・

いろいろある映画の感想ですが
一番こころに残っているのそのことでした。

最近、外から刺激がちょっと強すぎと思っていました。
ニュースも暗い物がおおくて・・・・・

外からきこえてくるものが、
とても乱暴な物に思えたり。

でも、耳を傾けてたとき、
まず聞こえてくるのは、自分の中からの声であり、音なんだ。
などと、いう感覚がおきて、
映画をみながら、音をききながら、静かに涙することができました。

主人公の「うた(という名前です)」のいった強烈な一言
「私は音楽だよ」(神童とはそういうことでした。)
もつよく心に残りました。

自分の感じやすさが、ここのところ、マイナスポイントとして感じていたりもしたのですが、(もっと、強く、おおらかに、たくましくありたいと)
この映画をみて、繊細な感覚もやはり大事にして育てていきたいなあと
あらためて思うこともできました。

自分の中の音楽をきくことができるというのは、やはり、すごいことのようなので。
昨日は新緑の高尾山にいってきました。
去年は1年に3回もいくほど高尾山にはまっていたのですが
このところごぶさたでした。
ここのところ、疲労がたまっていたので身体を休めたいという思いもあったのでが。
だいぶ体調は回復してきたので
せっかくの連休、ちょこっとだけでもと思い高尾山にでかけていきました。

そうしたら、もう山のパワーにおされたかのように、5時間はたっぷりアップダウンの山道をあるきとおしました。

まあ、高尾山はハイキング程度ではありますが
なかなかおくが深く、今回は一度も通ったことのない、稲荷山コースをへて、奥高尾にはいり、一丁平でお昼。くだりは、なんだか、地図にものっていない急な道をおりて、(あとでみたら、健脚コースですって!)ひざをがくがくさせながら帰ってきました。

疲れたけれど、足も腰も痛いけれど、
本当に青い空、白い雲、やわらかい新緑。かわいらしい花々(スミレが中でもお気に入りです。そうしてシャガが満開でした)。哀しいかな、テープを流しているの?とつい思ってしまうほどはっきり聞こえる鳥の声。

ここは別世界でした。
メインのコースをさけたので、連休の人の多さは余り気にならず
ひたすら、高尾山のもつ自然とちょっぴりスピリチュアルな世界にどっぷりとひたってきました。

この世ははいろいろな世界の組み合わせだ、一つの現実だけに目をむけていては全体がみえなくなる。一つの世界のことにこだわるのはよくないなんて、ぼんやり気づきがおとづれました。

そうして、さらにうれしかったこと。
今年は実はお正月にめったにひかないおみくじをひいたら、
よいものがでなくて、いけないことと知りながら3回もひきなおしていたのです。ひいてもひいても結果はかわりませんでした。
昨日、高尾山薬王院で、天然石おみくじというのがあって、
天然石にひかれてひいたら、水晶がでてきました。

もしやと思って、中身をみたら、、でました「大吉!!!」
「大変な流れとおもっていても 流れの激しさは最初だけ。これからは、大きな流れは平和になり成功をもたらす」
というような文でした。

山にのぼれば、おみやげはたくさんでした。
皆様、良い連休をおすごしください。

悪いスパイラルにはまってしまったような気がする。 ものごとには色々な見方あるはずなのに ひとつの見方にこだわり始めている自分がいる。

「自分はこうだ」と決め付けようとしている自分がいる。 ちょっとおおげさ、ちょっと被害者意識、ちょっと自分が正義 そんな側面。 うーん、もっといえば、なんかピエロのような感じ。

そういう自分がいるのは事実だしいてもいいのだが、 余りにそんな自分にはまってしまうと ぬかるみにはまり込んだような気持ち。 ぬかるみはどこまでも続く。

ええい、力を入れて、すこしふんばって ここはぬかるみからぬけだすしかない。 自分で、自分をぬかるみからひきあげる。 ということは、自分を引き上げるもう一人の自分が必要。 どんな自分。 全体をクールに見ている自分。 自分の出来ることと出来ないことを見極めている自分。 一喜一憂せずに、 自分のミスもかっこわるさまもまわりの理不尽さも 受け入れる自分。 おお、大人の自分。 私の中には必ずいる、この自分の助けをかりて、 マイナスのスパイラルからちょっとぬけだしていくように、 努力してみよう。

自分できめればやれそう。 きっとやれるはず。だよね。とまあ、ぶつぶつととなえている

少し前は「脳」というものに関心があって、そういう本をよく読んでいた。
その頃の雑学で一番気に入っていたのが
「脳」を自分そのものというより、臓器の一つとして考えよう。というもの。(うろ覚えの知識だが)
たとえば、「胃」という臓器が調子が悪ければ、ゆっくりやすませてあげる、必要なお薬を飲む。それとお同じで、「脳」と言う臓器が調子がわるければ、同じように栄養を与えたり、よく休ませてあげる、というもの。疲れて調子が悪い脳にもっとがんばれというのは、調子の悪い胃にもっと働けということと同じで、結果が悪くなるのは、目にみえている。
もっとも脳のすごいところは、この休養(睡眠)をとっている間にもけっして、本来眠っているわけでもなく、夢をみたりして、問題解決をおこなっているということもある。

「脳」と思わず、ちいさな子どもと思ってまもってあげればいいという話も読んだ。ちいさな大切なこどもが疲れたら、無理にはたらかさないでしょう。その子が元気になるように、守ってあげるはず。
ゆっくりやすませてあげるはず。心地よいことをしてあげるはず。

そうすれば、ものすごく力のあるそのちいさなこども
「脳」はさらにパワーアップして力を発揮していく。
くれぐれも大切にしてあげてね。

というような内容。本当うろ覚えだが。
でも、気にいっていました。
この考えで、ずいぶんピンチをきりぬけてしました。

新しい環境への適応能力がおちていて、ここのところ思ったより、疲れたりもしているのですが、こういう時こそこの「脳」の話を思い出します。

ということで、ここのところ、ごろごろして仕事以外何もてがつかないことへのひらきなおりでした。
今日は午前中は予定がなくてゆっくりできるので、ひさしぶりに早起きしなくていい日。
めざましも解除して、からだを休めようと   
思っていたのにやはり早朝とびおきてしまった。
理由は、足がつったため。
寝ていたら、ふくらはぎのところがいたくて、飛び起きた。
寝ていただけなのにどうして、つってしまったのだろう。
新しい職場では、長時間ほとんどすわりっぱなし。
これで、血行がわるくなっているのかもしれない。
ちらっと頭をかすめるのはエコノミー症候群のこと。
そこまで思うのは、オーバーだとうが
でも、同じ姿勢で長くいるのは、絶対に負担だろうなあとは思ってしまう。

新しい環境には、身体が自然となれてくるかなあとも思うけれど、身体にあまりがまんさせてはいけないなあと思った。

まだまだ忙しいけれど、そろそろ身体の声も聴いてあげなければいけないのかもしれない。
そのために身体からもメッセージとして、朝のこむらがえりはあったのかな。

暖かくなったら、またプールにかようことにしよう、
歩く距離もふやそう。

などと思った今朝の一撃でした。
四谷に用事ででかけ帰りがけに、線路沿いの道を歩いて満開の桜の花を楽しんでいた。
そうしたら、一緒に歩いていた友人が、うでをひっぱる。
何ごと?と思ったら、小声でささやかれた。
「小澤征爾」
え、うそーと思って前を見たら、前から来る人、確かに確かに小澤征爾だった。
あの指揮者の小澤征爾その人。
細い身体で、あの長い髪で、どくとくの雰囲気で、もうまったく小澤征爾だった。
本当におどろいた。
でも、内心の驚きは抑えてすれ違った。
すれちがって、またふりかえる。

おどろいたのにはもうひとつわけがある。
先週の「オーラの泉」は指揮者の佐渡豊だった。
昨日、録画でみたばかり。
佐渡豊が、自分をみいだしてくれた人といって、
小澤征爾の名前をあげ、その顔の映像が流れていた。

これはやはりおどろく。
めったにみない小澤征爾の画像をテレビでみたばかりで、次の日、本人をみるなんて。

これは春から、よい流れと思って、どきどきした。
桜の花に誘われて、小澤征爾も散歩していようだった。

世界のマエストロの風格は満開の桜にすこしもまけるものではなかった。

3月は自分も自分のまわりの人のことでも、いろいろ動きがあってばたばたしてしまいました。

自分が動こうとおもったり、変わろうと決心した時、不思議と、同じような流れにある人たちがまわりにできます。

つながっている、やはりそう思ってしまいます。

自分の中でおきていることと、周囲の世界でおきることはつながっている。


そう思うと、日々の自分のささやかな気づきや成長も、本当に大切だなあとも思います。

くもの糸のように、この世界のことはみんな関係しあっているということを

ちょっぴり実感している日々です。

一日何をやっていたかというと、ホームページの更新に悪戦苦闘 何をやってもだめ。
更新のためにFFFTPからプロバイダーに接続したいのにできない。
何回やってもパスワードが違いますとでてしまう。
だって、以前にも行っている作業で、このパスワードで問題ないのに。

時間のむだ。
目の疲れ。
達成感のなさ、

すごくむなしい。
以前は、パソコンも何とかやれるかと思ったが
最近、なんだか、理不尽な不具合が多くかんじる。
そうなるともうだめだ、やれないと思い込んでしまう。

スイカとパスモの話題でもちきりだが、
それが便利かもしれないけれど、
必要なことなのかどうもわからない。
なにかトラブルがあってもわからない仕組みに思える。
ふつうにお金をはらって、切符を買う。
手間がかかっても、納得できる行為だと思うが。

自分のものわかりわるさ、知識のなさのやつあたりだが。
これでは、老後は都会にはいられないかもしれない。

携帯とパソコンとスイカを使いこなす自信がどんどんなくなる。