前作のアルバム『生活人生』から1年半が経った。

それ以降、ボイトレをして…という報告からしばらく途絶えてしまっていた。

アルバムを出した後は、商業としてのポップスを作ってやろうと躍起していた。
もういい歳だし、音楽を生業にしていくぞ!みたいにカネになる曲を作ろうかと焦っていた。
しかしその焦りもむなしく、ショボいメロディを何パターンか作って終わった。(うっせぇわに触発されて作った酷似品もあった…)
カネのために、仕事として曲を作ろうなんて僕はできないかもしれない。というかやりたくない。
自分の言いたいことを、伝えたいことをやることしかできない。

その後は、なにもアイディアが思いつかなかった。
もう、『生活人生』が最後の作品なんだな…
音楽人生が終わった、というと大袈裟だけど
もう音楽や作詞といったアプローチで作品を作ることはないのかなと思っていた。

(そんな中、1曲だけサマーヌーンという曲を作ったりしたが、それもボツに)

夏頃まではそんな感じだった。


8月のある日、本を立ち読みした。
ベストセラーとなった『ケーキの切れない非行少年たち』だ
その頃、持病に悩まされており、精神科医やパニック障害などの本を読んでいた。 自分もなにかしらの発達障害なのだろう。そうでなければおかしい。(そう思わざるを得ないのは失敗者だからか)そんな思いの中、なんとなしに手に取った。
その本には、軽度知的障害などで犯罪に手を染めてしまう少年少女の姿を、現場で見てきた児童精神科医である筆者が解説していく内容なのだけど、正直、不快に感じてしまった。被害に合う恐ろしさよりも、自分も加害者になるかもしれない恐怖。そして犯罪に手を染めると簡単には元に戻れない社会にも。
もちろん被害者もいたたまれないけど、この子たちだってなりたくてこの役をやってるわけではない。
僕は、そっち側の人間として、作品を作り続けなければと強く思った。
そもそも僕が曲を作り始めたときも「負けてる俺たちのための曲を作らなきゃ」という気持ちから始まっていて、原点に返ったような気分になった。
というか、完全に正しい人なんていないんじゃないか。人それぞれ間違った教育を受けてきて、悩みや苦悩がある。それはまるでグラデーションのようだな。
アルバム『グラデーション(仮)』といったイメージで、発達障害や生きにくい世間についての曲を書き始めた。完全に創作意欲が復活した。


・・・

 

そこから一年経ち、未だ構想をねりねりしている。
テーマは二転三転して、でも方向性は変らず、僕らしい曲がめちゃめちゃできている。


やっぱり僕は曲を作るのは好きだけど、それは音楽性を伴ってないなというのはここ数年ずっと思っていて。
やはり音楽家にはなれそうもない。そこに理想はない。
だから、『音楽を作る』というよりは『曲を作る』と言いたい。曲と言うと、言葉とメロディがあればOKのように感じてしまう。音楽を作るというと、優れた展開や音色がある音楽性の高いものを指すように感じてしまっていて、自分の場合は曲だなと思ってしまう。


話は変わるけど、親ガチャなんて言葉が出てきて数年たつけどね、僕だって親から正しい教育を受けてきたとは到底思えない。憎むようなときもよくある。でも、俺なんかは家系の癌なんだと思うことにしてる。異物。遺伝子を残せない劣性。それでいいじゃないか。現代には負け犬のための文学、音楽、絵画、マンガ、アニメ、詩、哲学、ゲーム、アダルトコンテンツ。なんだってあるじゃないか。負け犬最高!あいつら勝者にはわかりえない美しいもの気持ちいものに浸れて最高!そういう風に落とし込もう。現代で生きてる以上、だいたいが最高だよ。タンパク質多めに取って、金が無くても図書館行けばOK。


また話は変るけど、最近、短歌が気になっていろいろ見ていますが、僕の曲は短歌とかドローイングのようなものなのかもしれない。それが理想形なのかもしれない。
歌人はみんな、日常を愛していて、それを切り取ってるように見えて、それは僕が求めてる表現に近い気がしていて。


日本の音楽史の原点はどこなのかとか、日本らしい表現はなにかとか、それで現代短歌を読んだり、いろいろ悩んでる。悩むのが楽しい。
ブルースを含むアメリカ音楽史も同時進行で勉強中。学ぶのが楽しいけどとっ散らかってる。ブログで発散すれば整うかと思ったけど全く。
邦楽の歴史はアメリカ音楽の影響を切り離せないんだけど、僕はもっと純度の高い日本らしい表現を求めてる。なぜなら、リアルタイムで異国のロックンロールバンドへの憧れが無いから。そんな話ももっとしたい。眠たい。それではまた。